木曾義昌(きそ・よしまさ) 1540?〜1595

武田家臣。木曾義康の子。伊予守・左馬頭。号は玄徹か。
木曾義仲の末裔といわれ、信濃国福島城に拠って木曾郡を領した。
弘治元年(1555)、父・義康の代に武田信玄に攻撃されて降り、信玄の娘を妻として武田氏親族となった。騎馬2百騎持の侍大将として勢力を張る。
信玄が没し、あとを継いだ武田勝頼が天正3年(1575)5月の長篠の合戦に大敗を喫して武田氏の勢力が急速に衰えると織田信長に内通した。その報復として天正10年(1582)2月、勝頼らに率いられた1万5千の兵が木曾谷に侵攻すると、地の利を生かした山岳戦に持ち込むとともに信長から派遣された織田信忠らの援けを得て鳥居峠に破った。これが義昌の生涯初めての大合戦といわれる。
武田氏滅亡後の同年3月には信長からその功を賞され、本貫地の信濃国木曾郡に加えて安曇・筑摩の2郡を加増されたが、6月の本能寺の変で信長が横死し、甲信地方の情勢が不安定となると北条氏直、ついで徳川家康に属して所領の存続を図った。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦には羽柴秀吉に与し、徳川方の保科正直と戦った。
天正13年(1585)になると石川数正と共に秀吉のもとへと出奔。
文禄4年(1595)、木曾の地が秀吉に収められ、子の義利が下総国阿地土に1万石を与えられた。
同年3月13日、同地で没した。56歳か。法名は玉山東禅寺。
徳川家康に属した子・義利も関ヶ原の役後、所領を没収されている。