武田義信(たけだ・よしのぶ) 1538〜1567

武田信玄の嫡男。母は公家・三条公頼の女。幼名は太郎。
天文19年(1550)12月に元服。智勇ともに優れており、信玄の後継者として嘱望されていたという。
天文21年(1552)11月、甲駿相三国同盟の一環として今川義元の娘を妻に迎えた。
天文22年(1553)に将軍・足利義輝より一字を与えられて義信と名乗り、弘治4年(=永禄元年:1558)1月には義輝より准三管領の称号を与えられている。
永禄4年(1561)の川中島の合戦(第4回)には奮戦して、その名を広く知らしめた。
しかし永禄5年(1562)頃より異母弟・勝頼が台頭してきたこと、永禄7年(1564)頃から武田氏の戦略が北進策から西進策に転じ、その矛先が妻の実家である今川領に向けられたことなどから、父子間に反目が生じた。これらのこととの因果関係は不明瞭だが、永禄8年(1565)9月頃に謀叛の計画が発覚すると東光寺に幽閉され(武田義信幽閉事件)、永禄10年(1567)10月19日、幽室にて自害した(病死ともいわれる)。
夫人は翌月に駿河国の今川氏へと帰され、武田氏と今川氏の同盟関係は破綻した。そして永禄11年(1568)12月、武田氏は今川領への侵攻を開始することになる(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)。