川中島(かわなかじま)の合戦:第4回

幾度かの攻防を繰り返しながらも甲斐国の武田信玄の勢力は着実に信濃国に浸透し、永禄元年(1558)頃には越後国春日山城に近い信越国境を脅かしていた。春日山城主・上杉謙信は今度こそ信玄に一大打撃を与えようとして永禄4年(1561)8月14日、突如として1万8千の大軍を率いて春日山城を発向、信濃方面への動きを見せた。
謙信に従軍する武将は柿崎景家本荘繁長、小島貞興(鬼小島弥太郎)、山吉豊守、安田長秀、直江実綱、北条高広色部勝長、新発田長敦らという錚々たる顔ぶれに加え、村上義清高梨政頼須田満親ら信濃国を信玄によって逐われた諸将も先陣として参じており、必勝を期しての出陣であったことがうかがえる。
一方でその動きを察知した信濃国海津城将・高坂昌信は、すぐさま烽火網によって謙信出馬を甲斐国躑躅ヶ崎の信玄へと知らせた。善光寺制圧の要衝である海津城が越後の軍勢に奪取されることを恐れた信玄はすぐに動員令を下し、自ら1万6千の兵を率いて8月18日に甲府を出発した。

謙信は高倉峠を越えて飯山に至り、15日には善光寺に到着している。そこを兵站基地として大荷駄隊と後詰の兵を5千ほど残し、自らは主力軍として1万3千の兵を率いて妻女山に登り、16日にはそこに本陣を布いている。
信玄の方は24日に上田を出発し、千曲川を渡って茶臼山に入った。そして25日、雨宮の渡しを占領して謙信の退路を断ち、茶臼山を降りて千曲川を挟んだ妻女山の対岸に布陣した。
それから両軍の睨み合いが続いていたが、29日になると信玄は突然に全軍を海津城に集結させたのである。これは『啄木鳥(きつつき)の兵法』の布石といわれる。
『啄木鳥の兵法』とは、啄木鳥が木の中の虫を取るときに穴の反対側を嘴でつつき、その音に驚いて出てきた虫が出てきたところを取って食べるという習性を兵法に応用したものという。つまり信玄は、別働隊をもって妻女山の裏側から攻めさせ、驚いた上杉軍が前面に出てきたところを、待ち構えていた主力軍で討ち取ろうという目論みだったのである。
その頃の武田勢は2万人に増えており、それを二手に分け、信玄を筆頭に弟の信繁信廉、嫡男の義信山県昌景穴山信君内藤昌豊、原昌胤、跡部勝資らが本隊として8千を率いて八幡原にて待ち受け、残る1万2千を別働隊として高坂昌信、飯富虎昌馬場信房真田幸隆らが率いて妻女山の裏側から攻めるという手筈であった。その別働隊はは9月9日の夜中に海津城から妻女山へと向けて発向している。
ところが、この「啄木鳥の兵法」は上杉勢に見破られていたのである。謙信は9日夕刻の海津城に炊煙が盛んに立ち上るのを見て、武田の兵に大きな動き、つまり行軍があることを察知したという。謙信は、直ちに全軍が妻女山を降りて千曲川を渡り、夜明けとともに武田本陣を急襲する旨を諸将に伝えた。妻女山の陣地にはいつものように篝火を焚かせ、軍馬の口には音を立てさせないために枚(ばい)を咬ませ、静かに雨宮の渡しを渡った。

そして翌9月10日の払暁、立ち込めていた朝靄が晴れて周囲の視界が開けたとき、信玄本隊の前面には謙信の軍勢が群れをなしていたのである。時をほぼ同じくして、妻女山に奇襲をかけるはずだった武田別働隊も、もぬけのからになった上杉本陣を見て呆然としているところであった。完全に裏をかかれてしまったのである。こうして信玄は8千の軍勢で、1万3千の兵を率いる謙信と正面衝突をしなければならない羽目に陥ってしまった。これが有名な川中島八幡原の決戦である。
上杉勢は『車懸かりの陣形』で武田勢に迫り、武田勢はこれを『鶴翼の陣形』で迎え撃った。車懸かりの陣形とは、本陣を中心に各隊が車輪のように回りながら、次々と敵に突入していくという極めて攻撃的な陣形である。対する武田勢の用いた鶴翼の陣形とは、鳥が翼を大きく広げるように各隊が広く展開し、敵を包み込んで戦うというものである。戦国時代を代表する名将同士の、初めての直接対決であった。
八幡原は両軍入り乱れての、敵味方の区別もつき難いほどの大乱戦となった。全体の戦況としては、数と勢いに勝る上杉勢が優勢であった。特に上杉随一の猛将と謳われる柿崎景家の勇猛ぶりは目ざましく、様々な史伝において賞賛されている。
また、乱戦の中で「三太刀七太刀」といわれる信玄と謙信の一騎打ちが行われたというのもこのときである。もっとも、最近の研究ではこの両雄の一騎打ちというのは後年の脚色だとする意見や、信玄に斬りかかった武士は謙信ではなく、上杉家臣の荒川長実とされており、史伝に伝えられるような『信玄と謙信の』一騎打ちがあったかどうかは疑問とされている。一騎打ちの真偽はともかく、合戦の帰趨ははじめのうちは上杉方が優勢で、信玄の本陣近くまで攻め込んだことは事実らしい。
この合戦において信玄に啄木鳥の兵法を提言したという山本勘助は柿崎隊に打ち破られて討死し、武田勢の副将・武田信繁も、信玄本陣を守るために宇佐美駿河隊に斬り込んで壮烈な討死を遂げている。
ところが、妻女山攻めに向かった別働隊が引き返してきた頃から状況が変わり始める。この別働隊はそれまでの戦いに加わっていない「新手」であり、士気もすこぶる高かった。その別働隊が合流したにより、武田勢は一挙に勢いを盛り返したのである。そのため、今度は上杉勢が武田勢に追い崩される結果となり、ついには犀川方面へと撤退していった。

こうして、雌雄が明確にならないままに4度目の川中島の合戦も終わったのである。
一説では、この日の合戦で上杉勢では死者が3千4百余、負傷者が6千余人、武田勢では死者が4千6百余、負傷者が1万3千余人だったという。この数をそのまま鵜呑みにはできないとしても、双方共に多数に上る死傷者を出したことは間違いない。