信濃国北部の須田郷を本拠とした武将。従五位下・相模守。
かつては信濃国一向一揆の指導者だったが、天文22年(1553)に甲斐国の武田信玄の侵攻を受けて所領を逐われると越後国の上杉謙信を頼り、以後の川中島の合戦には上杉方の先陣を務め、旧領の回復を目指して活躍した。
天正10年(1582)、越中国松倉城将となる。同年の本能寺の変後に北信濃に復帰して、天正12年(1584)には総領家を継ぎ、天正13年(1585)6月には海津城代として信濃国のうちの4郡を支配した。
同年の徳川氏による真田氏の上田城攻めに際して真田昌幸の二男・幸村を人質として預かり、上杉景勝による真田氏援助を斡旋した。また、景勝の命によって出陣し、真田氏への援軍の大将として北信濃諸将の指揮を執った。
天正16年(1588)8月に羽柴秀吉より豊臣姓を賜り、のちには従五位下・相模守に叙任された。
文禄3年(1594)の時点における満親の知行定納高は1万2千余石、軍役負担は725人。
慶長3年(1598)2月に死去。上杉氏の会津移封に際して自殺したともいうが定かではない。子の長義が家督を相続、上杉氏に従って会津へ移った。