真田幸村(さなだ・ゆきむら) 1567〜1615

信濃国上田城主・真田昌幸の二男。真田信幸の弟。一般的には『幸村』の名で通っているが、実名は信繁である。別称を信仍。幼名を弁丸、通称は源次郎。従五位下・左衛門佐。剃髪したのちは好白と号す。
父・昌幸と共に戦略家としてその名を知られた。
天正13年(1585)、徳川家康の大軍が上田城を目指して進発したとの報を得ると、越後国の上杉景勝から援軍を受けるために人質として上杉氏へと送られた。のちに真田氏が羽柴秀吉に従属すると秀吉に近侍し、この間に大谷吉継の娘を娶った。
天正18年(1590)の小田原征伐においては父・昌幸や兄・信幸と共に従軍し、文禄の役においては肥前国名護屋城に在陣した。
文禄3年(1594)に従五位下・左衛門佐に叙位・任官。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には信幸と袂を分かち、昌幸と共に上田城に拠って、中山道から西上する徳川秀忠率いる大軍を8日間に亘って足止めさせ、関ヶ原への参陣を阻んだ(上田城の戦い:その2)。
関ヶ原の役後、東軍に属した信幸の嘆願によって死罪を免れ、昌幸と共に紀伊国高野山の麓・九度山へ配流された。この間に剃髪し、好白と号した。
慶長19年(1614)10月、徳川氏との対立が決定的となった豊臣秀頼の招きに応じ、九度山を脱出して大坂城に入城。大坂冬の陣には大坂城外堀の脇に『真田丸』と呼ばれた出城を築いて防戦、大いに武名を挙げた(真田丸の戦い)。この間、徳川家康の命を受けた叔父・真田信尹(加津野信昌)から、10万石の所領を与えるという条件で徳川方に招かれたが断ったという。
翌慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣における天王寺口の合戦では、全軍赤備えに身を固めて決死の突撃を繰り返し、家康の本陣にまで迫って旗本を蹴散らした。このときは家康も絶望のあまりに腹を切ることも覚悟したという。
だが、ついには力尽きて戦死し、その凄まじさから「真田日本一の兵(つわもの)」と語り継がれている。
5月7日、49歳。追号は大光院殿月山伝心大居士。
勇猛の印象が強調される幸村だが、実際には小兵で、兄・信幸をして「左衛門佐(幸村)はものごと柔和忍辱、物静かで言葉が少なく、怒り腹立つことがなかった」という。また、戦国時代における「真田」の武名の大きさについて、実際は真田幸隆・昌幸父子によるところが大きく、ともすれば幸村の武功はこの2人のものと混同されているという見方もあるが、この大坂冬・夏の両陣において幸村の名が轟いたのは紛れもない事実である。それだけその壮烈さが印象付けられたということなのであろう。