羽柴秀吉が威信をかけて築き上げた大坂城は難攻不落を謳われる堅固な城であったが、秀吉の生存中は実戦に使用されることは一度としてなかった。しかし秀吉が没したのち、秀吉の遺児・豊臣秀頼と天下の覇権を望む徳川家康が抗争するに及び、初めて敵兵を迎えることになる(大坂冬の陣)。
大坂城は北の天満川、東には深田、西は大坂湾という天然の地形を要害と化していたが、南方だけは平野に面していたため、この方面が大坂城唯一の弱点と目されていた。そこで大坂方はこの弱点に備えるために、南面の外堀のさらに外側に出丸を築いて空堀をめぐらし、二重の防御態勢を構えたのであった。
この出丸は東西(横方向)に長く南北(縦)に短く丸みを帯びた形に築かれ、背面以外の三方に空堀を掘ってその間に塀を設け、空堀の対岸、底、塀の外側、と三重に柵を立てていた。外からの虎口(出入り口)は両脇にあるのみで、形状としては大規模な『馬出し』に相当するものであった。
この出丸は、真田幸村が7千の守備兵を率いて守ったことから、「真田丸」あるいは「真田出丸」と呼ばれた。
一説には、後藤基次もこの地の手薄さを見て取って出丸を築くことを考えたために幸村と場所の取り合いになったが、「幸村がこの出丸構築を考案したのは兄・真田信幸の子らが参陣している徳川方に内応しているからで、敵兵をここから引き入れるためだ」という流言が飛び、これを聞いた基次がかえって幸村に同情し、この地の守備を譲ったともいう。
この真田丸を舞台に、もっとも激しい攻防戦が繰り広げられたのは慶長19年(1614)12月4日のことである。
幸村はこの真田丸を築いてのち、その前面の伯母瀬山または篠山などと呼ばれる小山に柵(拠点)を設けて、鉄砲隊を繰り出しては狙撃していたため、徳川方は毎日数十名ほどの損害を出していた。
そのため徳川方はこの地を占拠しようと、前田利常に属す本多政重・山崎長門らが率いる先鋒隊が闇に紛れてこの柵に攻め上ったが、そこには城方の兵士は一人もいなかった。そこで先鋒隊はさらに進み、真田丸の空堀の際まで前進したが、そこを真田丸で待ち受けていた兵から狙い撃ちにされることになったのである。
そのとき、城内で小さな爆発が起こった。これは真田丸の後方にあった大坂方の石川康勝の兵が、誤って火薬桶の中に火を落としてしまったことによるものであったが、徳川方はこれを、かねてより手はずが決められていた城内からの内応の合図と勘違いし、前田利常隊のみならず井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎・寺沢広高・松倉重政ら真田丸正面や八町目口に布陣していた諸隊が城際まで押し寄せたのである。
これに対し城内からも幸村の子・真田大助や伊木七郎右衛門らの率いる5百余が討って出て寺沢・松倉隊に切り込んだが、やがて城内からの合図によって兵を引き、その後はもっぱら銃撃戦となった。
この真田丸付近での戦闘は卯の刻(午前6時頃)から申の刻(午後4時頃)まで続けられたが、高所の櫓や塀の狭間から、殺到する徳川方の兵を一方的に狙い撃ちにできる真田隊が戦況を優位に運んでいた。
本陣の家康はこの真田丸での苦戦を聞いて3度も撤兵を指示したというが、徳川方は銃弾避けの装備も持たずに不用意に押し寄せたため、空堀の中で真田隊から銃弾の雨を浴びせられ、空堀から出て退却することもままならなかったのであった。
結局、徳川方はこの真田丸攻めによって手痛い被害を被った。当時の記録によれば、松平忠直隊で480騎、前田利常隊で3百騎が討たれ、この他にも雑兵に多数の死者を出したという。