松倉重政(まつくら・しげまさ) ?〜1630

松倉重信の子。通称は九十郎。豊後守。
はじめ筒井定次に家老として仕えて、大和国伊賀名張(梁瀬)8千石の領主。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には定次に従い、徳川家康の率いる東軍に属して奮戦、武功を挙げた。
慶長13年(1608)に主家である筒井氏が改易となると重政も所領を失ったが、関ヶ原の役における軍功として大和国二見五条に所領を与えられ、1万石の大名となった。
大坂夏の陣にも出陣、元和2年(1616)に4万石に加増されて肥前国日野江城に入城。元和4年(1618)には島原城(別称:森岳城)の築城にかかり、ここを居城として島原藩の藩祖となる。
この島原の地は先の領主・有馬氏の影響でキリスト教が盛んであった。はじめは重政も宣教師の布教に寛大であったが、元和8年(1622)より幕府の命令を受けて領内における強硬なキリシタン弾圧を断行した。このキリシタン弾圧、島原城の築城と多大な公儀普請を賄うための過重な年貢の賦課などが相まって、後年の島原の乱が起こったとされる。
寛永7年(1630)にはキリシタンの本拠である呂宋(ルソン)攻略を幕府に上申して許可されたが、家臣を派遣して調査している最中に病死した。寛永7年11月16日死去。法名は龍朱院雪厳宗関。