信濃国高井郡高梨を本貫地とする国人領主。高梨澄頼の子。高梨政盛の孫。高井郡中野小館(中野城)主。
大永3年(1523)に父・澄頼の死没を受けて家督を継ぐ。
高梨氏は政頼の祖父・政盛が越後守護代の長尾能景に娘を嫁がせ、政頼はその能景の娘を妻に迎えるという二重の縁戚関係にあり、能景の子・長尾為景の下剋上にも協力して勢力を伸ばした。
しかしその反面で近隣の領主との関係が悪化し、大永4年(1524)には井上・須田・島津氏らの攻撃を受けて越後国に逃れたが、為景の後援を得て帰還が叶い、為景が享禄3年(1530)からの越後享禄・天文の乱と称される内乱で苦境に陥ると、政頼は為景を援け、天文5年(1536)4月の越後国頸城郡の三分一原の合戦に援軍に赴くなど密接な関係にあったが、同年8月に為景が隠退して長尾晴景が当主になったのちは関係が薄れたようである。
天文10年(1541)に家督に就いてより強力に信濃国侵攻を推し進める甲斐国の武田信玄に対しては、北信濃の有力領主・村上義清らと同様に、中野城と飯山城を拠点として徹底抗戦したが、押し返すには至らなかった。
天文22年(1553)閏1月には上洛し、さらに摂津国の石山本願寺に法主の証如を訪問している。これは武田氏に対抗するため、一向宗門徒の助力を得ようとしたものとも目されている。しかし同年4月、抗しきれずに葛尾城を捨てた村上義清とともに越後国の上杉謙信に援助を要請した。
謙信は同時期に後奈良天皇から「治罰の綸旨」(越後国とその隣国で敵対勢力を排除してよい、との許可)を賜っており、これによって北信濃の諸将の要請を容れて武田信玄と干戈を交えることになる。
しかし信玄の北信濃侵攻は繰り返されて政頼も圧迫を受け、弘治3年(1557)3月頃には謙信に「出馬が遅れるのなら飯山城を明け渡す」とまで伝えて出陣を要請している。
その後、時期は不詳であるが本領を維持できずに上杉氏に従属し、永禄3年(1560)8月末から翌年6月にかけての謙信による越山(関東出兵):その1の際には、上杉氏の本城である越後国春日山城の留守居を務めた。また、同年9月の川中島の合戦(第4回)には先陣として上杉方に従軍したが、旧領回復はならなかった。
高梨氏が本領復帰を果たすのは政頼の子・頼親の時代、天正10年(1582)6月の本能寺の変ののちに上杉氏が信濃国の川中島4郡(水内・高井・更級・埴科郡)を制圧してからのことである。