長尾能景(ながお・よしかげ) 1459〜1506

越後守護代。長尾重景の嫡男。弾正左衛門尉・信濃守。
文明14年(1482)2月に父・重景が死去したのち家督と越後守護代職を相続し、越後守護の上杉房定房能父子に従って越後国の統治を担った。
明応6年(1497)7月5日、上杉房能の意向を受けて段銭定納帳を作成して所領の支配力強化に努める一方で、明応7年(1498)に房能が無許可の守護不入地を没収する政策を打ち出した際には、守護代としては協力しつつも自領の権益は守っている。
山内上杉氏と扇谷上杉氏による分裂抗争(長享の乱)においては永正元年(1504)10月、房能の実兄にあたる関東管領・山内上杉顕定を支援するため房能と共に関東に出兵し、武蔵国河越城に拠る扇谷上杉朝良を攻めた。12月には扇谷上杉方の武蔵国椚田要害と相模国の実田(真田)要害を攻略している(椚田・実田の戦い)。
永正3年(1506)には越中守護・畠山尚順の要請を受け、越中国に進出してきた加賀一向一揆を鎮圧するために出陣した。この遠征において能登畠山氏と連携して各地で戦ったが、9月19日に礪波郡般若野の合戦で討死した。法名は天徳院殿高岳正統。
明応6年7月21日に父の菩提を弔うために春日山城下に林泉寺を建立し、禅僧・曇英慧応を招いて開基とした。以後、この林泉寺は越後国長尾氏の菩提寺となる。