般若野(はんにゃの)の合戦

「三管領家」のひとつである畠山氏では、畠山政長畠山義就による畠山氏惣領をめぐる対立が、代替わりを経てもなお続けられていた。この畠山氏の内訌に、幕府将軍職をめぐる政争や、同じく三管領家のひとつである細川氏の介入などが複雑に結びつき、15世紀後半の中央政権における権力闘争は混迷を極めていた。
畠山氏の内訌は永正元年(1504)に至って畠山尚順(政長の子)と畠山義英(義就の孫)による和睦が成立したことで一応の決着を見るが、代わって細川氏と畠山氏の抗争が激化するようになる。
細川氏は(本願寺)実如の援助で加賀・能登・越中・美濃・尾張など諸国の一向一揆を蜂起させて、畠山氏に攻勢をかけてきたのである。

当時の越中国は、在京する尚順に代わって椎名・遊佐・神保ら守護代諸氏によって統治されていたが、射水・婦負郡を領する神保慶宗は自身の勢力拡張を目論んで一向一揆と協調するなど、尚順の意に反することが多かったため、尚順は越後守護代・長尾能景に一向一揆と慶宗の撃退を要請したのである。
長尾能景は、加賀国を発火点とする一向一揆が隣国の越中国にまで影響を及ぼしはじめていることを危惧していたこともあったため、越中国への出兵を承諾した。
能景は長尾一族から成る手勢や越後守護の被官である水原氏を率いて越中国に出陣し、畠山氏と連携して軍事行動を展開した。なお、この軍勢には能景の子・為景は加わっていないが、それは越後国の中越地方で越中一向一揆と連動して反乱を起こしていた一党を鎮圧するため、蒲原郡方面に出陣していたためである。
越中国に侵攻した長尾能景勢は一揆方の魚津・滑川・岩瀬城の軍勢を破り、永正3年(1506)8月18日に婦負郡寒江郷の蓮台寺でも一揆勢を撃破すると、さらには越中一向一揆の拠点である砺波郡の瑞泉寺に向けて進撃した。
この劣勢を憂えた一揆方は砺波郡や五箇山の一揆を総動員して長尾軍に当たることとし、さらには守護方(長尾方)であった神保慶宗・遊佐慶親らをも利をもって寝返りを誘ったのである。神保・遊佐氏らにも長尾氏の影響力が越中国に及ぶことへの反発があったと思われ、一揆方に寝返る密約が固められたのである。
そして9月19日、庄川と和田川に挟まれた水田地帯の砺波郡般若野まで進んだ長尾勢は、二上城から打って出た神保慶宗の軍勢によって退路を断たれて前後から挟撃されることとなり、大混乱の中で能景や水原景家らが敗死するという大敗を喫したのであった。