長尾為景(ながお・ためかげ) ?〜1542

越後守護代・長尾能景の子。通称は六郎。信濃守・弾正少弼。上杉謙信の父。
永正3年(1506)、父・能景が般若野の合戦で戦死したことにより家督を継いだ。
その翌年(1507)、越後守護の上杉房能と対立すると越後国松之山郷において敗死させ(天水越の合戦)、房能の養子・上杉定実を後任の守護に擁立した。
この為景の行動は室町幕府からの公認を得たが、房能の兄で関東管領の上杉顕定の進攻を受け、越後国の国人領主の離反もあって敗れ、一時は越中国へと逃れた。
しかし永正7年(1510)4月に越中国より佐渡国を経て越後国に帰還、その後は徐々に戦況を覆し、同年6月の長森原の合戦で顕定を討ち取ったことで実質的に越後国を掌握した。
永正16年(1519)に越中守護・畠山尚順の要請を受けて能登守護・畠山義総と連携して越中守護代・神保慶宗を討つために越中国に侵攻(長尾為景の越中侵攻戦:その1)、翌年末には慶宗を討ち取った(長尾為景の越中侵攻戦:その2)。この功によって大永元年(1521)12月、畠山尚順より越中国新川郡の守護代に補任された。
これ以降は幕府や朝廷と積極的に独自の交渉を持つようになり、従来の越後守護・上杉氏の存在を有名無実化し、越後国における下克上として長尾氏の戦国大名化を図った。
しかし、この為景の権力の強化が定実や定実派武将らとの対立を招き、越後国内は為景派と定実派の抗争が頻発するようになった(越後享禄・天文の乱)。この情勢に『治罰』と呼ばれる内乱平定の綸旨を得るなどの工作を行って対応したが収拾することができず、結局は天文5年(1536)8月に自ら表舞台から身を引いて嫡子・晴景に守護代職を譲り、元来の守護として上杉定実の復権を認めざるを得なかった。
没年については諸説あるが、天文11年(1542)12月24日に没したとみられる。法名は大龍寺殿紋竹庵主譲恕道七。生年も不詳であるが、享年66ともいう。