畠山義総(はたけやま・よしふさ) 1491〜1545

畠山慶致の嫡子。通称は次郎。左衛門佐・従四位下。悳(徳)胤と号す。
伯父で能登守護の畠山義元の後継者に早くから定められ、これを補佐した。
将軍・足利義稙の御供衆として活動したのち、永正11年(1514)に能登国に下り、能登国で頻発していた小反乱を鎮定、領国内における大名権力の強化に努めた。
永正12年(1515)に義元が死去すると家督を相続、能登守護となった。
永正17年(1520)には越後守護代・長尾為景と協力して、一向一揆と結んだ越中守護代・神保慶宗の叛乱を鎮圧(長尾為景の越中侵攻戦:その2)。のち30年ほどに亘って能登国では義総の支配によって政治的安定が保たれたという。
また、義総は古典や漢詩文の研究、和歌・連歌・儒学などに造詣が深かったため、多くの公家・連歌師・歌人などが戦乱の都を避けて能登国に下向してきた。また、七尾城の麓に城下町が形成され、領国の政治・文化の中心として栄えた。
天文14年(1545)7月12日死去。法名は興臨院殿伝翁悳(徳)胤。