神保慶宗(じんぼ・よしむね) ?〜1520

姓の読みを「じんぼう」とも。越中守護代。神保長誠の子。越中国高岡郡二上城主。
越中守護・畠山尚順に仕えて越中守護代として射水・婦負郡を統治していたが、幕政の主導権をめぐる畠山尚順と細川政元の抗争の影響から、永正3年(1506)、細川政元に扇動された加賀一向一揆より圧迫を受けた。
これに対して畠山尚順は越後守護代・長尾能景に一向一揆討滅を依頼し、能景はそれを受けて越中国に出征したが、畠山氏からの自立を企てていた慶宗は密かに一揆と結託し、同年9月に能景を戦死に追い込んだ(般若野の合戦)。このため神保氏は永きに亘って長尾氏から遺恨を買うこととなる。
永正15年(1518)より畠山尚順より派遣された軍勢によって討伐を受け、弟・慶明とも袂を分かち、翌年にはこれに加わった長尾為景にも攻められて滅亡に瀕したが、一向一揆の支援を得て能登・加賀国方面からの畠山勢を撃退、長尾勢をも退かせた(長尾為景の越中侵攻戦:その1)。
しかし永正17年(1520)に再び長尾為景の侵攻を受け、同年12月には新川郡新庄城に布陣した長尾勢を遊佐・椎名・土肥氏らと共に攻めたが、大敗を喫して12月21日に自害した(長尾為景の越中侵攻戦:その2)。