長尾為景の越中(えっちゅう)侵攻戦:その2

永正15年(1518)に越中守護・畠山尚順より越中守護代・神保慶宗の討伐を依頼された越後国の長尾為景は、翌永正16年(1519)9月に越中国に侵攻して二上城にまで追い込んだが、呼応して攻める手筈となっていた友軍が失策によって連携できず、出征先での孤立や冬の到来を危惧して神保慶宗討伐を断念、帰国した(長尾為景の越中侵攻戦:その1)。

再度の越中国侵攻を企てた長尾為景は永正17年(1520)4月、前年の失敗を教訓に、尚順自身もしくは子息の越中国下向を求めた。しかし尚順は畿内で同族の畠山義英義堯父子と抗争していたため動くことができず、慶宗の弟である神保慶明を取り立てて為景へ協力することを命じ、併せて能登守護・畠山義総と為景の連絡調整にあたらせた。さらに尚順は、本願寺と交渉して加賀国の一向一揆が越中国に介入しない約束を取り付け、神保慶宗を孤立させることに成功したのである。
この形勢を見て不利と判断した神保慶宗は尚順に和平を申し出るものの、尚順はこの処置を為景に一任し、為景は慶宗の申し出を拒否している。
同年6月半ばに越中国へ向けて出陣した為景は、7月に神保方の椎名一類を破り、8月には境川の渡河戦に快勝して境川城を陥落させてさらに進撃、越年を覚悟して新川郡の新庄城を本陣として神保氏との決戦に備えた。
これに対し神保慶宗は遊佐・椎名・土肥らの諸氏を味方につけ、神通川を越えて太田荘に陣を構えて対峙した。
神保勢は12月21日に長尾勢の拠る新庄城への総攻撃に及んだが、反撃に遭って数千人が討ち取られたとされるほどの大敗を喫し、椎名康胤は降伏、神保慶宗も自害あるいは討ち取られたといい、越中一国は為景により平定されたのである。