長尾為景の越中(えっちゅう)侵攻戦:その1

越中国は康暦2年(1380)頃に畠山基国が守護に任じられてより畠山氏の守護領国となっていたが、15世紀末には越中守護代・神保慶宗の自立的行動や政敵である細川氏の扇動による一向一揆勢のため、統治に苦しんでいた。
そこで畠山尚順は越後守護代・長尾能景に一向一揆の鎮圧を依頼し、それを受諾した能景は永正3年(1506)に越中国に出征した。しかし同年9月、一向一揆と、一揆と結んだ神保慶宗らの軍勢によって敗死したのである(般若野の合戦)。
討死した能景のあとを継いで越後守護代となったのは嫡子・長尾為景であった。為景は自らが擁立する上杉定実を越後守護職に就かせたのち敵対する勢力を次々に降し、永正11年(1514)頃には越後国統治の実権を掌握するに至ったのである。
一方、越中国では神保慶宗が主家・畠山氏からの自立を企てる動きを見せていた。このため多くの国人領主らが越後・飛騨・能登国へと逃れて神保氏に反発し、また、かつて神保氏と結んでいた一向一揆も距離を置くようになっていたのである。
この情勢を見た畠山尚順は神保慶宗の討伐を目論み、永正15年(1518)に猶子(実父は畠山義英)の畠山勝王を総大将として出陣させる。また、これと併せて長尾為景や能登守護・畠山義総にも越中国への出征を要請したのである。

畠山尚順から「勝利の暁には越中国の1郡を与える」との条件で出征を要請された為景は、これを承諾した。神保慶宗には寝返りのために父・能景が敗死に追い込まれたという遺恨もあり、その無念を晴らすという思惑もあったことであろう。この談合は7月頃には為景と畠山勝王との間で取り決められ、為景は永正16年(1519)の春を待って出征する手筈になっていたが、為景が実際に出陣したのは9月になってからのことであった。
このとき為景の率いた軍勢は大規模なものではなく、一族衆を中心とするものであった。この頃の為景は実質的に国主の地位にあったが、それは越後守護である上杉氏の威を借るもので、実際には国内各地に割拠する国人領主、とくに揚北衆を傘下に収めるまでには至っておらず、勢力基盤は磐石ではなかった。この勢力基盤を強化するためにこそ、自力で勢力拡張を果たして威勢を高めるため、独力で出兵したと見ることができる。
しかし能登国方面からは畠山義総の軍勢、加賀国方面からは畠山勝王および加賀三ヶ寺(二俣本泉寺・波婆谷松岡寺・山田光教寺)の出兵が予定されるなど、各方面から呼応しての出陣であったために勝算は充分にあったとみられる。

長尾勢は前述の友軍のほか越中守護代の遊佐慶親や椎名長常、神保慶宗の弟・慶明らとも結んで越中国に侵攻、9月9日に越中・越後の国境である境川で神保慶宗の軍勢を撃破した。さらには富山城を攻略し、慶宗の本拠である高岡郡二上城を包囲して城下に放火、10月には落城寸前にまで追い込む。
しかしこの頃、能登国において神保方に味方する一向一揆が畠山氏の属城を窺う動きがあったために能登畠山勢は撤退、また、加賀方面から軍勢を進めた畠山勝王勢も、中立の立場にあった一向宗寺院の土山坊を焼き討ちにしたために蜂起した一向一揆の急襲を受けて敗北したともいい、期待された軍勢の到来はなかったのである。
こうした友軍の不手際から加賀・能登方面からの軍勢との連携を失った為景は、冬の到来もあって二上城攻略を諦め、帰国したのである。