長尾晴景(ながお・はるかげ) 1510?〜1553

越後守護代・長尾為景の嫡男。幼名は道一丸。通称は弥六郎。初名は定景。弾正左衛門尉。越後国頸城郡春日山城主。
享禄元年(1528)12月、12代将軍・足利義晴より「晴」の字を与えられて晴景と称し、天文5年(1536)8月、越後享禄・天文の乱鎮定に失敗して隠退を余儀なくされた父・為景より家督を譲られて越後守護代となった。
合戦よりもむしろ芸事を好み、病弱で武将としての器量がなかったと伝わる。このために諸将が従わず、とくに越後守護・上杉定実の嗣子に伊達時宗丸(のちの伊達実元)を迎えようとした動き(伊達時宗丸入嗣問題)に際し、国内が2派に割れて混乱の度合いを増した。これに対して越後国中部(中越地方)の諸将を牽制するため、天文12年(1543)に弟・景虎(のちの上杉謙信)を栃尾城へ派遣し、また、かねてより警戒していた一族の上田長尾氏には、妹を長尾房長の嗣子・政景に嫁がせ、越後国中部を有力な一門衆で固めることで勢力基盤の確立を図った。
この政策は有効的にも見えたが、器量に優れた景虎を擁する勢力も現われ、天文16年(1547)頃には兄弟間の不和を招くこととなった。
天文17年(1548)の暮れ、上杉定実の調停を受けて景虎に守護代の座を譲って隠退した。
天文22年(1553)2月10日に病没、享年44とも45ともいう。法名は千巖寺殿花嶽光栄。