長尾政景(ながお・まさかげ) 1527〜1564

越後守護代長尾氏の一族で、越後国魚沼郡上田荘を根拠とした上田長尾氏の当主。長尾房長の子。通称は新五郎。越前守。魚沼郡坂戸城主。
越後守護代・長尾晴景とその弟である景虎(のちの上杉謙信)が対立した際には晴景を支持した。この兄弟の反目は天文17年(1548)末に謙信が晴景の養子となってその名跡を相続するということで落着したが、依然として政景と謙信との緊張関係は続いており、天文19年(1550)の暮れには坂戸城に拠って反抗する姿勢を明らかにした。
翌年には両陣営に属す領主間での衝突が起こるが、同年8月に謙信に和睦を申し入れて屈服し、謙信の姉を妻に迎えた。
そののちは謙信の厚い信任を得て、上杉氏の大きな支柱となる。謙信が関東や信濃国へ出陣するにあたっては越後国内の留守を預かり、仕置きを行った。一族中の筆頭であり、謙信に次ぐ勢力を持っていた。
永禄7年(1564)7月5日、謙信の重臣・宇佐美定満を招いて坂戸城下の野尻池で舟遊びをしているときに、定満と共に溺死した。38歳。法名は宗得院殿匠山道宗大禅定門。
この事件については「誤って溺死した」と伝わる反面で、政景の肩の下に刀で斬られた痕があったとすることから定満に殺害されたとする説もあり、真相は不詳である。
政景の遺児・卯松は謙信に引き取られて養子となった。謙信の死後に上杉氏の名跡を継承した上杉景勝である。