内藤昌豊(ないとう・まさとよ) ?〜1575

武田家臣。旧姓は工藤氏で、武田信虎時代の老臣・工藤虎豊の二男で、信玄勝頼の2代に仕えた侍大将。はじめ工藤源左衛門と名乗る。名を正重・重昌とも。修理亮・下総守。
天文元年(1532)、虎豊が信虎に強諫して誅されたために昌豊は兄・昌康と共に出奔したが、信玄の自立後に呼び戻された。
天文15年(1546)、50騎持の侍大将に昇進。
武田信繁と並んで「甲陽の副将」との呼び声が高い知将。名副将との評価に相応しく、合戦においては個人の功名よりも全軍的な視野から戦況を捉え、集団の統制に尽力したという。また、仏学・文学などの教養も高かったという。
永禄9年(1566)、武田家が上野国箕輪城を攻略した後に譜代家老衆に昇格すると共に箕輪城代として西上野7郡の統治を任され、領国経営の一翼を担った。
永禄11年(1568)の三増峠の合戦では小荷駄奉行を勤め、それまでの軍功を賞されて甲斐の名族・内藤氏の名跡を継いだ。
元亀2年(1571)、北条氏康の遺命によって武田氏と北条氏が再度の同盟を結んだとき、信玄は和睦外交の全権を昌豊に委ね、氏政との交渉にあたらせた。また、兄・工藤昌康が北条氏に仕えていたため、その伝手から交易を振興させて内陸の西上野に大量の塩や海産物をもたらすなど、経済発展にも大きく貢献したと伝わる。
信玄の没後も西上野の郡代として駐留して武田氏の発展に寄与したが、天正3年(1575)5月の長篠の合戦で戦死した。