山本勘助(やまもと・かんすけ) 1493?〜1561

武田家臣。山本貞久の四男で、明応2年(1493)に生まれたという。名は晴幸だが、通り名である勘助の方が有名。勘介とも。入道して道鬼と号す。
三河国牛窪に生まれ、はじめ通称を源介、名を貞幸と名乗っていた。諸国遍歴ののちの天文12年(1543)頃に板垣信方の推挙で武田信玄に召抱えられたという。このとき、信玄(晴信)より一字を与えられて名を晴幸に改めたという。
「色黒く、さんざんの醜男にして、片眼、指も叶わず、そのうえ、ちんばなり」と記されるように左眼失明、右足が不自由で、全身に戦傷を負った色黒の醜男ながらも兵法・築城・諜報の術に長けており、天文19年(1550)9月の戸石城の戦い(武田の戸石崩れ)で武田軍の壊滅を防いだり、諏訪頼重の娘を信玄の側室に抱えるべく奔走するなど、側近として信玄に仕えた。
永禄4年(1561)9月、川中島の合戦:第4回では「きつつきの戦法」を信玄に具申、必勝を期したその作戦を展開するが上杉方に裏をかかれ、信玄本陣が窮地に陥った責任を感じ、乱戦の中に飛びこんで討死した。69歳というが、生年と享年に異説がある。
『甲陽軍艦』がその華々しい活躍を伝えるが、他の史書や古文書には勘助が登場しないことから、かねてより実在の真偽など謎の多い人物とされていた。しかし『市河文書』に「山本菅助」の名が見え、実在が明らかとなった。だが人物、経歴や評価など、まだ不明な部分が多い。