元亀4年(=天正元年:1573)4月の武田信玄の病没後、四男の武田勝頼があとを継いだ。その勝頼は、信玄以上に積極的に領国拡大を図り続けている。天正2年(1574)5月3日、勝頼は2万5千の兵を率いて甲府を出発、12日から遠江国の高天神城を囲み始め、兵糧攻めに出たのである。
徳川勢に属する高天神城は遠江国きっての要害と謳われた天嶮の山城で、駿河方面からの侵入を扼す要衝に位置する城であった。元亀2年(1571)3月に信玄も2万の兵をもってこの城を攻めたが、落とすことのできなかった堅城である。
城将は勇猛として知られた小笠原氏助である。勝頼は力攻めを行うとともに、穴山信君に命じて氏助に働きかけ、「祖を辿れば小笠原氏は甲斐源氏の流れで、武田とは同族である。城を明け渡せば富士下方に1万貫の地を与え、家臣についても保障する」と、降伏開城するよう説得工作も進めさせていた。
氏助は、その話に乗るような素振りを見せることで時間かせぎをしつつ、その間に使者を徳川家康のもとへ送って援軍を要請した。家康は、さらに織田信長に援軍を求めた。信長がこの報せを受けたのが5月15日というが、織田勢はこの頃、越前国や伊勢国の一向一揆との戦いに忙殺されていたために充分な兵力を用意することができず、すぐに援軍を出せる状況ではなかったのである。
家康・信長からの援軍がこないままに氏助は防戦を続けていたが、6月に入ると武田軍の猛攻によってとうとう西の丸が落ち、井戸曲輪も占拠され、ついに6月17日、氏助は先の武田方の提示する条件をのんで開城した。
勝頼は氏助に1万貫の所領を与え、他の者に対しても旧知行と同等のものを与え、仕えることを拒む者にも希望通りにさせた。そして城番に横田尹松を置き、自らは甲府へと戻った。
高天神城救援のため、6月14日に岐阜城を発した信長は17日に吉田に着き、さらに東へと軍勢を進めたが、今切を渡ろうとしたところで高天神落城の知らせを受け、虚しく岐阜に兵を戻した。
重要な防衛拠点を失った家康は8月に馬伏塚城を修築し、そこに大須賀康高を置いて、高天神城に備えた。