遠江国高天神城主。小笠原氏興の子。通称は与八郎。別称を信興・長忠・氏儀。弾正忠・弾正少弼。
はじめ今川氏に属したが、永禄11年(1568)12月に三河国の徳川家康が遠江国に侵攻した際に徳川氏に服属した。その直後の掛川城の戦いに従軍し、元亀元年(1570)の姉川の合戦には、徳川軍の第二陣として出陣している。
元亀3年(1572)10月、徳川氏と断交して遠江国に侵攻してきた武田信玄に降るが、翌年4月に信玄が没し、5月頃より徳川氏が遠江・駿河国で反攻に出た際に再び徳川氏に帰順したようである。
しかし天正2年(1574)5月に高天神城は再び武田勝頼の軍勢に取り囲まれ、援軍を徳川氏に要請したが得られなかったため、6月に開城降伏した(高天神城の戦い)。降伏した氏助は武田氏に遠江先方衆として取り立てられ、名を信興と改めて引き続き高天神城の守将として在城した。
天正3年(1575)5月の長篠の合戦で武田氏を退けた家康が攻勢に出て遠江国に勢力を広げると、徳川氏への寝返りを警戒されてのことか、駿河国富士郡鸚鵡栖(おうむす)または重須に1万貫を宛行われて転封を命じられた。その時期は不詳であるが、天正3年10月から翌年11月までの間とみられる。
生没年ともに不詳。降伏後ほどなくして病死したともいわれるが、天正10年(1582)に織田信長の命を受けた北条氏政に、あるいは天正18年(1590)、徳川家康によって命を断たれたとする説などもあって判然としない。