新発田重家(しばた・しげいえ) 1546〜1587

越後国の国人領主。佐々木加地氏の一族。新発田綱貞の子。新発田長敦の弟。
通称は源太。初名を治長。治時とも。右衛門尉・因幡守。はじめ、叔父にあたる越後国蒲原郡加地荘五十公野(いじみの)城主・五十公野弘家の養子となった。
16歳のときの永禄4年(1561)、関東に侵攻した上杉謙信に従って相模国小田原城の攻撃(越山:その1)に従軍し、手柄を立てた。以後、揚北(あがきた:阿賀北)衆の有力武将として転戦した。永禄年間後期には、謙信が越山の拠点とした上野国沼田城の城将として駐留したことが知られている。
天正6年(1578)3月、謙信が没したのちに上杉氏の家督相続をめぐって起きた御館の乱においては上杉景勝方について戦功を立てたが、恩賞についての不満から景勝と不仲になり、北陸にまで進出していた織田信長と結んで天正9年(1581)6月より景勝と交戦に及んだ(新発田重家の乱)。
この間の天正8年(1580)に兄・長敦が病死したため、実家である新発田氏の家督を相続して新発田城主となる。
天正10年(1582)1月頃までには新潟に築城して前線拠点とし、信長の没後も景勝と復さず、天正11年(1583)には蒲原郡西部にも進出して景勝を苦しめた。景勝が羽柴秀吉と結ぶと、重家はそれに対抗して越中国の佐々成政や陸奥国会津の蘆名盛隆と結ぶなど、徹底して抗戦を続けた。
景勝との交戦は6年以上にも及んだが、天正15年(1587)10月28日に景勝勢の攻囲を受けてついには落城、斬死して果てた。享年42。法名は一声道可大禅門。
武略に優れた猛将だったという。