新発田重家(しばたしげいえ)の乱

越後国新発田城主・新発田重家上杉謙信死後の内訌(御館の乱)において上杉景勝に与して勝利に寄与したが、戦後の論功行賞で恩賞の沙汰がなかったことに強い不満を持っていた。そこに織田信長より内応を誘われ、これに応じて景勝に叛いたのである。
重家が逆意を企てるに至った時期は不詳であるが、天正9年(1581)4月頃にはそうした風聞が流れていること、同年5月17日付の武田勝頼からの書状に『貴国(越後国)奥郡之事、付、新発田事』とあることから、御館の乱が決着した天正8年(1580)後半から天正9年早春頃までの間と推測され、天正9年6月に新潟津沖の運上(入港税)徴収権を奪って敵対の態度を顕わにしたのであった。
重家の叛意を知った景勝は蒲原郡木場城の防備を固めるなどの措置を取っているが、この頃には北陸方面における織田勢の動きも活発化しており、重家はこれに呼応して戦線を拡大し、新潟や沼垂までをも版図に収めたのである。
さらに天正10年(1582)3月になると織田勢は武田勝頼を滅ぼし(武田征伐)、その余勢を駆った軍勢が上野・信濃国方面から越後国を窺っており、6月には越中・越後国の国境に近い越中国魚津城もが落城寸前にまで追い込まれていた(魚津城の戦い)。ここに厳重な上杉包囲網が完成しつつあった。
しかし事態は急転する。6月2日未明、京都・本能寺に投宿していた信長を重臣である明智光秀が討ったのである(本能寺の変)。
信長の死を知った織田勢がにわかに撤退を始めたことにより、上杉勢は息を吹き返した。
危機を脱した景勝は、まずは信濃国に出兵して北信濃を制圧したのちに新発田征伐に取り掛かる。8月下旬に新発田方の五十公野に侵攻し、9月に至っては新発田城の堀際にまで迫るなどして1ヶ月に亘って攻撃を続けたが、攻めあぐねて9月25日に撤退しようとしたところ、放生橋で新発田方からの激しい追撃を受けている(放生橋の合戦)。

本能寺の変ののち、北陸地方では信長亡きあとの織田氏の主導権をめぐって羽柴秀吉柴田勝家の対立が表面化していた。秀吉は景勝との連携を企図し、勝家方の将・佐々成政がその大半を領する越中国への出兵を要請しているが、一方の成政は景勝に抗していた新発田重家と結ぶことで景勝の背後を撹乱することを目論んでおり、景勝と重家の抗争は単なる一地域の抗争という規模を越え、地方の情勢をも左右する戦略戦の一端を担うようになる。
天正11年(1583)1月に景勝は秀吉の要請に応じることを伝え、3月にも秀吉から越中国への出兵を要請されているが、この頃の景勝は信濃国に出馬しており、越中国への出兵はできなかった。その間にも秀吉は勝家征伐に動いており、4月の賤ヶ岳の合戦、続く北ノ庄城の戦いを経て勝家を滅ぼし、北陸地方を制圧したのである。
ここに秀吉は威勢と実力を増すこととなり、北ノ庄の戦いの直後には景勝が越中出兵に応じなかったことの違約を咎めているが、これに対して景勝は秀吉に勝家を討滅したことを祝すとともに、今後とも昵懇を願う旨の書状を送っている。これは秀吉の風下に立つことを認めたことに他ならないが、景勝は秀吉との関係を深めることで後顧の憂いをなくし、新発田討伐に意を注げることになった。

景勝と重家の抗争において、水運の要衝である新潟・沼垂の掌握がひとつの焦点となっていた。新発田勢は新潟城を拠点として天正11年2月と3月に景勝方の木場城や蒲原郡西部を攻撃しており、4月になると逆に木場城や天神山城の上杉勢が新潟城を攻撃している。
景勝は5月1日に居城・越後国春日山城を発向して新潟へ向かった。5月18日には揚北衆の築地資豊・本荘繁長らに参陣を要請するなどして新発田方面への攻撃の態勢を整えているが、その後しばらくは新潟に駐留していたようである。7月には新潟と沼垂で合戦があったことが見え、一旦は三条に軍を退いたのちに阿賀野川の上流を迂回して新発田方面に侵攻した。
8月18日に新発田方の赤谷城に軍勢を差し向けたところ、新発田方からも迎撃の軍勢が出動し、八幡で合戦となった。この合戦は数時間にも及ぶ激戦となったが、新発田勢が退却したことによって上杉勢の勝利となった(八幡の合戦)。景勝はその後、五十公野・新発田周辺に放火して焼き払い、9月11日には春日山城に帰城している。
その後も景勝は新発田への出陣を企図するが、天正12年(1584)には徳川家康に属す信濃国諸将が北信濃の上杉領の切り崩しを図ったこと、秀吉と断って家康と結んだ佐々成政の動きが活発になったことなどから景勝自ら信濃国や越中国に出馬しなければならず、新発田攻めは一時的に頓挫せざるを得ない情勢が続いたが、秀吉が天正13年(1585)8月に越中征伐を行って佐々成政を屈服させたことによって、北陸戦線は落着する。
天正14年(1586)6月に上洛して秀吉に臣従する意を示した景勝は、長逗留することなく7月6日に帰国しているが、こののち秀吉は使者を通じて「早く国内を平定することを望む」旨を伝えている。これによって新発田征伐は単に越後国の問題に留まらず、秀吉の天下統一事業のひとつに組み込まれたことになり、重家には情勢の悪化に他ならない事態となった。
景勝は帰国後間もなく新発田討伐の準備を進め、8月に出陣。8月26日には五十公野城下に放火するなどして新発田勢を攻め立てているが、大きく勢力を削ぐには至らなかった。
しかし9月になると秀吉は言を転じ、景勝と重家の和睦の斡旋に乗り出す。その内容は重家が城と所領を明け渡すことで赦免するというものであったが、この意図は秀吉が徳川家康との対戦に備えて上杉勢を動員できるようにするためのものであった。が、10月下旬に家康が秀吉に恭順する意を示したため関東出陣の懸念が払拭されると同時に信濃国の緊張も緩和され、11月には再び新発田征伐に専念せよとの書状が下されている。
なお、この下知に先立つ10月下旬に景勝は軍勢を派遣して新潟・沼垂の城を攻略しており、新発田勢討滅に向けて大きく前進していた。

明けて天正15年(1587)4月に景勝は新発田侵攻のために軍勢を率いて発向し、5月13日には内応策をもって重家方の水原城を自落させた。しかし陸奥国会津の領主である蘆名氏が新発田勢を支援するとの報を得ており、その対策のためか、6月には春日山城に帰っている。
8月に再度出陣した上杉勢は蘆名氏と新発田勢の連絡を絶つため、蒲原郡の東部から新発田方面へと向かい、加地城・今泉城を陥落させたのちに新発田方面へ抑えの軍勢を残し、新発田と蘆名領をつなぐ要衝・赤谷城を9月14日に攻略した。これら諸城の陥落により新発田勢は蘆名氏よりの援助を絶たれ、孤立無援となる。
上杉勢は10月24日には五十公野城を攻略し、残った新発田城への総攻撃にかかった。
景勝はこの新発田城攻めにおいても内応者を作って25日の夜半より総攻撃を開始し、27日までには本丸を残すのみとしている。そして28日、重家は自ら700余騎の軍勢を率いて景勝軍に突撃を敢行したが果たせず、自刃した(新発田城の戦い)。
この6年以上にも亘って敵対を続けた新発田重家を討ったことにより、景勝は越後国の平定を完了したのである。