魚津(うおづ)城の戦い

上杉謙信の在世中は上杉氏との衝突を避けていた風のある織田信長であったが、北陸地方の経略において勢力がかち合うようになり、天正6年(1578)の謙信の死後は対立の様相が明確なものとなった。とくに天正9年(1581)の越中国荒川の合戦以降は、織田勢が押し気味に勢力を広げつつあり、越中国願海寺城主の寺崎盛永、木舟城主の石黒成綱など、織田方に属しつつも上杉方にも通じていたとの疑いのあった者らが次々と粛清され、越中国における織田勢力の基盤が固められていったのである。
そんななかにあって、織田方に属していた小島職鎮が突然に叛き、越中国富山城を奪うという出来事が起こる。
富山城を奪われた織田方は、すぐさま柴田勝家佐々成政前田利家佐久間盛政を大将に1万余の軍勢で富山城を攻めさせ、富山城を取り戻した。これが天正10年(1582)3月11日のことであり、この日は甲斐国田野で武田勝頼が自刃した日でもある。富山城を回復した織田勢はその勢いを駆って進撃、越中国魚津城を包囲した。

魚津は上杉氏の本領・越後国との国境近くにあり、上杉氏にとっては最後の防衛線である。この事態を受けて魚津城将の中条景泰らはすぐに上杉景勝に救援を求めたが、その頃は武田征伐を終えたばかりの織田の大軍がまだ甲斐国や信濃国に駐留しており、さらには越後国新発田城主・新発田重家が反乱(新発田重家の乱)を起こして織田勢に呼応して蒲原郡に侵攻していたため越中戦線に増援を送れず、さしあたっては能登国の諸将および上条政繁・斎藤朝信らを先発隊として派遣するに止まった。
しかし1万とも1万5千ともいわれる織田勢の攻撃は3千8百の兵で守る魚津城を徐々に弱らせていき、満足な後詰もないままに城に籠もっているだけでは落城も時間の問題であった。魚津城将12名は4月23日付の連署による書状で「壁際まで押し寄せた敵が昼夜40日に亘って攻めていたところ、これまでなんとか守ってきたが、もはや討死の覚悟を決めた」旨を景勝の重臣・直江兼続に宛てて伝えるほどまでに事態は逼迫していたのである。

その頃の景勝は信濃国方面への防備に意を注いでいたが、信長が甲斐国から富士の裾野を通って駿河国・遠江国を経て安土に凱旋したことを確かめたあと、ついに越中国への出陣に取り掛かったのである。景勝自ら5千(3千とも)ほどの軍勢を率いて越後国春日山城を発向したのが5月4日だった。
一方、魚津城を取り巻く織田勢は4月中旬より猛攻撃を始めており、5月6日には城の二の丸まで占拠していた。
上杉勢は5月中旬、魚津城の東側にあたる天神山に着陣する。しかし魚津城を包囲する織田勢は上杉本隊との決戦を望まず、兵数に劣る上杉勢も打って出ることができず、両軍は対峙することになった。しかし、景勝が春日山城を留守にして越中国に滞陣していることを知った信濃国海津城の森長可、および上野国厩橋城にいた滝川一益が呼応して春日山城を衝く気配を見せたため、天神山にそれ以上布陣していることが困難になったのである。
この事態に、景勝は魚津城救援を断念せざるを得なかった。5月27日に至って軍勢を越後国に帰したのである。一説には景勝はこのとき、城を明け渡す条件で和議を結んで帰国しても構わない、という内容の直判の書を城中に送ったともいわれる。

織田勢の厳重な包囲を受けること約3ヶ月、救援も食糧もないままに落城が近いことを悟った中条景泰・竹俣慶綱・吉江宗信・吉江資堅・寺崎長資・蓼沼泰重・山本寺景長・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊らの城将は自らの耳に穴を開け、それに自分の名前を書いた木札を鉄線で結わえ付け、一斉に自刃して果てたのである。城将の切腹、すなわち魚津城の落城は6月3日のことであった。
ここに上杉景勝包囲網は完成し、勝ちに乗じた織田勢は越後国へと侵攻するべく準備に取り掛かった。しかしその前日の6月2日には京都の本能寺で織田信長が重臣・明智光秀によって討たれるという事件(本能寺の変)が起こっていたが、そうした情報はまだ北陸地方にはもたらされていなかったのである。
勝家らが信長の死を知ったのは翌4日といわれており、この急報に接した織田勢は全軍撤退した。
仮に籠城戦があと2日伸びていれば、事態はどうなっていたか予断を許さない戦いであった。