北ノ庄(きたのしょう)城の戦い

賤ヶ岳の合戦羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、本拠である越前国北ノ庄城目指して敗走したが、秀吉はすぐに堀秀政を先鋒として柴田勢を追撃させた。賤ヶ岳の合戦の勝敗が決したのは天正11年(1583)4月21日のことであったが、秀吉はその翌日の22日には前田利家の拠る越前国府中城に入り、利家と合流している。
利家はそれまでは勝家の与力大名であったが、賤ヶ岳の合戦の最中に勝家のもとを離れ、秀吉に与することにしたのである。この北ノ庄城攻めでは、その忠誠心を試されることとなった。
北ノ庄城は福井平野の東部、足羽川流域と北陸道とが交差する要衝に位置し、九重の天守閣を持つ壮大な規模の城だった。天正3年(1575)より築城を始め、この頃でも工事途中か、完成して間もない頃といわれている。
4月23日、利家・秀政を先鋒とする羽柴勢によって北ノ庄城は完全に包囲された。このとき秀吉は、賤ヶ岳の合戦で捕えた佐久間盛政と勝家の子(養子とも)・勝敏を晒し者にして城兵の戦意を喪失させたという。
その頃になると柴田勢の兵はほんのわずかしか残っておらず、すでに死を覚悟していたようである。はじめのうちこそ城中から鉄砲が撃たれたりしていたが、やがてはそういった攻防もなくなり、城中では夜になってから最期の酒宴が開かれたという。
翌24日、早朝から羽柴勢の攻撃が開始され、午後4時頃に城に火がつけられた。その猛火の中で勝家をはじめ、その夫人であるお市の方や家臣たちが切腹し、九重の天守を持つ城は陥落、炎上して灰燼と帰したのである。
お市の方の前夫・浅井長政との間にもうけられた3人の娘は庇護され、北ノ庄城で人質となっていた前田利家の娘・麻阿も救出された。

こうして秀吉は、山崎の合戦織田信長の弔い合戦を演じ、今また織田家の筆頭宿老であった柴田勝家を破り、信長の後継者としての地歩を固めたのである。
勝家と同盟していた織田信孝は兄の織田信雄に岐阜城を包囲され、5月2日に自刃した。また滝川一益も、所領の北伊勢5郡を差し出して秀吉に降った。これにより秀吉は近畿・北陸をその勢力下に収め、中部地方にも楔を打ち込むことに成功したのである。