神余親綱(かなまり・ちかつな) ?〜1580

上杉家臣。通称は小次郎。
16世紀前半には越後国上杉氏の京都雑掌として神余昌綱・実綱の名が見え、親綱はその系譜を継ぐ者とみられる。親綱は上杉謙信に側近として仕え、天文21年(1552)4月には謙信の使者として上洛して幕府管領・細川晴元に鷹や馬を届け、その帰路の同年6月には越前国朝倉氏の重臣・朝倉宗滴にも使いをしている。
天正5年(1577)6月の山吉豊守の没後、越後国蒲原郡三条城主となる。
謙信の死没後まもなくの天正6年(1578)3月下旬、上杉景勝に叛意を企てたとして不和になり、上杉憲政や山本寺定長らの仲介を得て和睦を望んだが、景勝は頑としてこれを容れようとしなかったことから、上杉家中では景勝派と反景勝派の分裂が顕著となり、これが御館の乱の遠因になったともいわれる。
御館の乱では上杉景虎に与するとともに三条城に拠って上杉景勝勢と戦い、景勝に対抗するために陸奥国会津の蘆名盛氏と結んだ。
天正7年(1579)3月に景虎が敗死したのちも、古志郡栃尾城の本庄秀綱とともに景勝への抗戦を続けていたが、天正8年(1580)4月には自ら出陣してきた景勝の攻撃を受け、一度はこれを退けて和議を申し入れたが容れられず、三条城は6月中旬頃に陥落した。
親綱は景勝方の兵に討ち取られたとも、城中で山吉豊守の旧臣に殺害されたともいわれる。