上杉景信(うえすぎ・かげのぶ) ?〜1578

越後国古志(栖吉)長尾氏で、前半生は長尾姓を名乗る。通称は十郎。
享禄3年(1530)から8年間にも及んだ越後享禄・天文の乱において、1月に作成された『越後国人衆軍陣壁書』に「十郎」とあり、当初は越後守護代の長尾為景に味方している。
天文5年(1536)に為景が越後守護代の地位と家督をその嫡男の長尾晴景に譲るとこれに属したようだが、天文16年(1547)頃、前年の黒田秀忠の乱を鎮圧した長尾景虎(晴景の弟。のちの上杉謙信)が台頭すると、病弱な晴景に代えて景虎を立てようとする動きが起こり、景信もこれに与同した。
長尾景虎が関東管領・上杉憲政から上杉氏の名跡を譲られて上杉姓を名乗るに際し、景信も一門として上杉姓を名乗り、上杉景信と称す。一門の筆頭格として、謙信とともに信濃国や北陸方面にも出陣した。
天正3年(1575)の『上杉氏軍役帳』には第3位に名が見え、家中での格の高さがうかがえる。総軍役81人を負担している。
天正6年(1578)3月の謙信没後に勃発した御館の乱に際し、上杉景虎を推して上杉景勝方と抗争したが、6月11日に居多浜で山浦国清と戦って討死したという。
景信の死により、古志(栖吉)長尾氏は断絶した。