上杉家臣。豊前守。上杉謙信・景勝の2代に亘って仕えた。
近江国守山の出身であるが、謙信が上洛した際の永禄2年(1559)に召抱えられた。謙信の側近として、寺領の安堵などに係る奉行職や他大名との対外交渉など、その活動は多岐に亘る。また、軍事指揮官としても有能で、永禄12年(1569)末には越中国魚津城将となって諸将を統括し、のちの謙信による北陸地方進出にも大きく貢献した。
これらの功績を賞して謙信が自身の旧姓である長尾の姓を与えようとしたが、長親は河田姓のままでの取り立てを願ってこれを辞したという。
天正3年(1575)の『上杉氏軍役帳』には記載されていないが、天正5年(1577)12月23日の上杉軍団動員名簿『上杉家家中名字尽手本』に名を連ねている。
天正6年(1578)の謙信死後に勃発した御館の乱に際しては、はじめは中立的立場にあったが、12月頃より上杉景勝陣営に与した。
天正9年(1581)4月8日(一説には3月24日)、魚津城で死去した。