北条氏邦(ほうじょう・うじくに) 1541?〜1597

北条氏康の四男であるが、天文21年(1552)に早世した兄がいるために三男と表記されることが多い。母は今川氏親の娘で、北条氏政氏照氏規の同母兄弟。幼名は乙千代。通称は新太郎。安房守。
武蔵国天神山城主・藤田康邦(重利)の娘の婿として藤田氏に入嗣し、藤田新太郎と称した。元服は永禄5年(1562)10月から7年(1564)6月の間。
北条氏は武田氏・今川氏と三国同盟を結んでいたが、永禄11年(1568)末にこの同盟が破綻すると武蔵国鉢形城を拠点として防備を固めた。また、これと並行して上杉謙信との同盟(越相同盟)を模索するところとなり、兄・氏照とともに北条方の責任者として尽力して翌年にこれを成立させている。
しかし元亀2年(1571)末に越相同盟が解消されて武田氏との関係が復活すると(甲相同盟)、上杉氏領国であった上野国への勢力浸透を図り、従属させた国人領主らの取次を務めた。氏邦の管掌する地域は上野国南西部から武蔵国北部にまで及んでいる。
弟・上杉景虎上杉景勝が上杉謙信没後の上杉氏家督をめぐって争った天正6年(1578)の御館の乱に際しては、上野国に在国していた北条高広・長尾憲景・河田重親らを調略して先鋒隊となし、氏邦自身も9月には景勝の本貫地である越後国上田に侵攻している。この過程で上野国の沼田周辺を版図に加えているが、景勝と結んだ武田勝頼の援軍のためにそれ以上は侵攻できず、冬を前に沼田へ撤退した。
以後は武田氏と上野国の帰趨をめぐって抗争を展開するが、その武田氏が天正10年(1582)3月に織田信長によって滅亡させられ、織田氏重臣・滝川一益が上野国に入部すると出仕している。しかし同年6月の神流川の合戦で敗れた一益が伊勢国に撤退すると上野国箕輪城へ入り、上野国西部をも管掌するところとなった。
天正17年(1589)、家臣の猪俣邦憲が謀略をもって真田氏に属す上野国名胡桃城を落とし、これが小田原征伐の発端になったともいわれるが、この名胡桃城奪取に氏邦の関与があったかは定かではない。
天正18年(1590)の小田原征伐では鉢形城に籠城したが、前田利家を通じて6月14日に開城降伏した。のち前田家に預けられ、知行1千石を与えられて能登国紬に居住したと伝わる。
のちに加賀国に移り、慶長2年(1597)8月8日、金沢で没した。法名は青竜寺天室宗清。