猪俣邦憲(いのまた・くにのり) ?〜1590

北条家臣。北条氏4代当主・北条氏政の弟である北条氏邦に属した。別称を富永助盛。能登守。
天正8年(1580)3月、甲斐国の武田勝頼に属す上野国の長尾憲景の属城である多留(樽)城を攻め、戦功を挙げている。このときは富永助盛と称していた。
天正10年(1582)6月の本能寺の変後に北条氏が織田氏の領国であった上野国に進出し、氏邦が箕輪城主となるとその城代に任じられ、10月には信濃国の佐久地方攻略のために内山城へ移るよう命じられた。
この頃より主家の北条氏が真田昌幸と上野国沼田の地をめぐって抗争を構えるようになり、北条氏邦の先手となってたびたび沼田領に出陣し、天正14年(1586)4月には戦功を挙げている。
この沼田領問題は天正17年(1587)2月の羽柴秀吉の裁定によって、沼田城を含む沼田領3分の2を北条氏、3分の1を真田氏が領有することが決められると、邦憲は9月までには沼田城代として入部している。
しかし同年11月頃、真田家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を謀略で乗っ取ったため、それが秀吉が北条氏の討伐へと動く大きな理由となった。
天正18年(1590)の小田原征伐において、邦憲は上野国箕輪城に逃れたが、7月に北条氏の本城である相模国小田原城が降伏開城に至ると、捕えられて磔刑に処された。