那須資晴(なす・すけはる) 1557〜1610

那須資胤の子。母は蘆野資豊の娘。通称は弥太郎・太郎。大膳大夫・修理大夫・従五位下。
屋島の合戦で扇の的を射た話で知られる那須与一宗高の流れを汲み、関東八屋形のひとり。
下野国烏山城に拠って宇都宮・佐竹・岩城・白川氏らと激しい対立抗争を繰り返したが天正13年(1585)3月、下野薄羽原で宇都宮国綱を撃破、余勢をかって喜連川・鷲宿などの敵城を攻め取り、武名を挙げた。
だが天正18年(1590)に羽柴秀吉から小田原征伐の遅参を咎められて本領を失うが、のちに大田原晴清を介して陳謝したため、嫡男の藤王丸(のちの資景)に5千石を与えられた。
文禄の役においては、肥前国名護屋に参陣した。
慶長5年(1600)に関ヶ原の役が起こるといち早く徳川家康(東軍)に属し、戦後には資景と合わせて1万3百石。慶長7年(1602)には父子それぞれ1千石を加増され、9年(1607)には従五位下・修理大夫に叙任、家康の側近く仕えた。
慶長15年(1610)6月19日死去。法名は不携院休山慶羅。