成田長泰(なりた・ながやす) 1508?〜1573?

武蔵国の国人領主。成田親泰の子。騎西城主・小田家時の兄。下総守。武蔵国忍城主。
大永2年(1522)、15歳で家督を相続する。
成田氏は父祖の代より山内上杉氏に属し、長泰も関東管領の山内上杉憲政に属したが、天文2年(1533)2月には武蔵国にも勢力を伸長させていた相模国の北条氏綱による鶴岡八幡宮造営の勧進に応じ、助成している。
天文14年(1545)から翌年にかけての武蔵国河越城の攻防戦(いわゆる河越城の夜戦)に際し、長泰は連合軍に攻められているというから、成田氏は北条氏康(氏綱の子)方であったのだろう。
天文21年(1552)初夏に長男の成田氏長とともに祈願社の妻沼聖天堂を建立し、永禄元年(1558)には上之村神社に社殿扉を寄進した。
天文21年頃に北条氏に逐われた上杉憲政が頼った越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)が永禄3年(1560)秋に関東に侵攻してくると、これに属して相模国の鎌倉まで出陣し、11月には鎌倉の妙本寺に制札を掲げている。翌年3月に上杉謙信勢が北条氏本城の小田原城を包囲した際には第ニ陣として参陣した。その後の閏3月に謙信が鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領に就任する儀式の際、確執が生じたようで(『鎌倉九代後記』では謙信の機嫌を損ねて扇子で烏帽子を打ち落とされたとする)、のちに謙信に背いて北条方に投じた(越山:その1)。
永禄6年(1563)2月、関東に侵攻していた上杉謙信が弟・小田家時の武蔵国騎西城(別称:私市城)を陥落せさせると、長泰も上杉軍に服属した(越山:その3)。
永禄9年(1566)8月、家督を長男の氏長に譲る。軍記物では、長泰は二男の長忠に家督を譲ろうと考えていたが、氏長に城を締め出されて家臣の仲裁で和を結び、長泰は龍淵寺に隠居することになったとされる。
その龍淵寺の記録では長泰は天文14年に没したとされているが、『成田記』では天正14年(1586)4月17日に卒し、法号を晴雲院殿自天宗湖大居士とする。しかし現地調査の結果では天正元年(1573)12月17日に没したと考えられる(『羽生城―上杉謙信の属城―』『羽生城と木戸氏』)。