長束正家(なつか・まさいえ) ?〜1600

豊臣家臣。近江国栗太郡常盤村の出身。通称は新三郎・利兵衛。大蔵大輔・従四位下・侍従。
若くして算術に長じ、丹羽長秀長重に仕えて財政処理に敏腕を振るっていたが、これを聞いた羽柴秀吉が長秀没後の天正13年(1585)頃に1万石で召抱え、貢租会計を管掌させた。この頃に従五位下・大蔵大輔に叙任。豊臣政権五奉行の一人でもある。
紀伊征伐九州征伐小田原征伐などの大掛かりな戦役においては、兵糧奉行として裏方から秀吉の軍事行動を支えた。朝鮮の役には糧食の輸送に活躍した。
天正19年(1591)閏1月には増田長盛らと共に近江国の検地を実施した。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役では肥前国名護屋城に駐屯。
文禄3年(1594)の伏見城工事を分担している。
文禄4年(1595)6月に近江国水口城主5万石となり、のちには12万石に加増された。
慶長3年(1598)、越前国の検地を実施。
秀吉の死後は徳川家康に近づき、石田三成の暗殺計画を知らせたりしたが結局は三成に味方し、東下中の家康を居城の水口で謀殺しようと目論むも失敗する。
関ヶ原の役では西軍勢力として伊勢口を固めて、伊勢国安濃津城を攻めた(安濃津城の戦い)。15日の関ヶ原の合戦では南宮山に布陣したが、吉川広家に遮られて帰城。10月3日(月日に異説あり)、池田長吉に欺かれて出城し、近江国桜井谷で自刃した。法名は大心院殿速成居士。