吉川広家(きっかわ・ひろいえ) 1561〜1625

毛利家臣。吉川元春の三男。母は熊谷信直の娘。永禄4年(1561)11月1日、安芸国山県郡大朝新庄の日野山城で生まれる。
幼名を才寿丸。通称は次郎五郎・又次郎。初名を経言(つねとき)。経信(つねのぶ)とする説もある。民部少輔・蔵人頭・侍従・従四位下。
元亀元年(1570)、父・元春に従っての尼子勝久征伐が初陣。
元亀3年(1572)、吉川氏庶流である宮庄氏を継いだ。
天正13年(1585)、毛利氏の人質として羽柴秀吉に謁見し、主君・毛利輝元から隠岐を与えられる。
天正14年(1586)11月に父が、翌天正15年(1587)6月には兄・元長が日向国出陣中に没したため吉川氏の家督と安芸国日野山城を相続し、毛利両川の一翼を担って宗家を補佐する。
同年9月に広家と改名。同年11月より、羽柴秀吉の命を受けた輝元の先鋒として、豊前国・肥後国の一揆鎮定にあたった。
天正16年(1588)、従四位下・侍従に叙任。
天正19年(1591)3月に秀吉の命で、毛利氏領内の出雲国能義・伯耆国・隠岐などで14万2千余石を与えられ、出雲国富田城主となる。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役では慶尚道・全羅道の侵攻に従軍し、碧蹄館の戦い、門慶の戦いで敵勢を蹴散らしたと伝わる。慶長2年(1597)に再渡海し(慶長の役)、蔚山城救援に赴いている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では毛利輝元の代理となって伏見城安濃津城の攻城戦に出馬。9月15日の関ヶ原の合戦では南宮山に陣したが、石田三成方(西軍)の敗北を見越して早くから徳川家康に内応していたために動かず、戦後には福原広俊と共に主家である毛利氏の存続に奔走した。結果、毛利氏は周防国・長門国の2国のみを領有して存続するに至るが、この広家らの工作の成果を是とするか否とするかについての評価は意見の分かれるところである。
広家自身は戦後に毛利氏領のうちから周防国玖珂郡など3万6千石を割譲された。
慶長7年(1602)より周防国岩国を本拠地とし、岩国藩の初代藩主として検地の実行・職制の改革などを行い、産業振興策として製紙を奨励し、新田開発などに力を入れた。
元和2年(1616)、家督を長子の広正に譲る。
寛永2年(1625)9月21日、玖珂郡通津(つづ)の隠居所で死去。65歳。法名は全光院中巖如兼。墓は岩国市横山。
父・元春と同様に、武人であると同時に好学の士であり、とくに文学において造詣が深かった。