安濃津(あのつ)城の戦い

この合戦は、慶長5年(1600)の関ヶ原の役によって派生し、同年9月の関ヶ原の合戦の前哨戦ともなった戦いである。
安濃津城は、湊町として古くから繁栄を誇る伊勢国安濃郡の津に、織田信長の弟・織田信包が天正8年(1580)に築城したものだった。小天守を伴う5層の天守閣がそびえる小さな平城だったという。この信包が羽柴秀吉の機嫌を損ねて失脚した後、かねてより秀吉の信任の厚かった富田知信が文禄4年(1595)に城主となり、5万石を領有していた。
知信は石田三成と反目しあっていたこともあり、慶長3年(1598)に秀吉が没して豊臣政権の求心力が低下すると徳川家康に接近していたが、知信は慶長4年(1599)に隠居して、嫡子の信高に家督を譲るに至る。知信はその年の10月に病死している。

慶長5年(1600)7月に三成が家康を討つために挙兵したとき、信高は3百ほどの手勢を率いて会津上杉征伐に従軍中だった。一方、徳川氏の重臣・鳥居元忠らが守る伏見城を落とした西軍勢力の毛利秀元・吉川広家・鍋島勝茂・龍造寺高房・長宗我部盛親(安国寺)恵瓊長束正家ら3万余の大軍はそのまま伊勢国を制圧しようと、鈴鹿を経て伊勢国に侵入した。このときの安濃津城には留守兵20人ほどが残るだけで、空も同然の状態だったのである。信高は伊勢国防衛のため、引連れてきた兵とともに三河国から海路で引き返した。途中、伊勢湾で西軍勢力の九鬼嘉隆に遭遇するが、中立を装って無事に城に戻れたという。
そのころ伊勢国で東軍に属していたのは安濃津城の富田信高、伊勢上野城の分部光嘉らであり、西軍はまず安濃津城の攻撃にかかった。他の伊勢国内の東軍勢力からの援兵、これに領内からの募集兵や津の町人らを加えても、兵の頭数は1千7百余でしかなかった。
8月19日から毛利秀元を大将とする大軍の包囲を受けた。この城は石垣も低く、籠城には不向きな平城であったが内堀・外堀ともに満々と水がたたえられており、本丸や二の丸、三の丸などを繋ぐのは橋だけであったので大軍をもってしても攻めあぐんだのである。
本格的な戦いは8月23日より始まった。この日は城から60人ほどの鉄砲隊が打って出ての小競り合い程度に終わったが、24日払暁から総攻撃が開始された。
吉川吉家・(安国寺)恵瓊らの主力軍が村々に放火しながら城の西南から攻め寄せた。やがて二の丸、三の丸まで押し込まれ、信高が本丸に引き返そうとしたとき、突然に城門が開いて美しい若武者がただひとり打って出た。緋縅の具足に中二段の黒革縅に身を包み、前立ては半月の兜を被り、片鎌の手槍で勇敢に戦って5、6人に手負わせたというこの若武者は、富田信高の妻だったという。
しかし多勢に無勢、翌25日に開城を決めた信高は高田一身田の専修寺において剃髪し、のち高野山にのぼった。しかし、西軍の3万の大軍を釘づけにした功が認められ、関ヶ原の合戦後に家康から2万石の加増を受けて安濃津城に復帰した。