織田信包(おだ・のぶかね) 1543〜1614

織田信秀の四男。織田信広信長信勝らの弟。通称は三十郎。名は信兼とも書く。初名は信良。従三位・上野介・左中将。老犬斎と号す。
はじめ伊勢国長野氏の養子となったが、謀計が露見して帰ったといわれる。
永禄12年(1569)、信長の北伊勢侵攻ののち伊勢国上野城主となる。以後、信長の武将として元亀元年(1570)から10年間に亘る石山合戦、天正3年(1575)の越前国平定戦、天正5年(1577)の紀伊国侵攻などに参戦したというが、いずれの戦いにも一手の将としての名が見えないことから、本陣に在って信長に近侍していたものと思われる。
天正8年(1580)、伊勢国安濃郡に安濃津城を築く。
天正9年(1581)2月には信長が京都で興行させた馬揃えに信長の連枝衆として参加し、同年の天正伊賀の乱に出陣して武功を挙げ、伊賀国山田郡を与えられた。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が討たれたのちは羽柴秀吉に属し、伊勢国安濃津城主となった。
天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍。このとき、北条氏の助命を斡旋したことが秀吉の機嫌を損ね、文禄3年(1594)9月に安濃津の地を没収された。その堪忍分(生活のための給付)として近江国のうちに5千石、子に1万石の所領を与えられたが、剃髪して老犬斎と号して京都慈雲寺に逼塞したが、のちに秀吉の御咄衆に加えられ、慶長3年(1598)に改めて丹波国氷見郡柏原城3万6千石の知行を与えられた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては西軍に属して細川藤孝の守る丹後国田辺城を攻撃(田辺城の戦い)したとされるが、攻撃軍側の陣立てに名が見えず、戦後の論功行賞においても知行地の増減がないことなどから不詳である。以後は大坂で豊臣秀頼に近侍した。
慶長19年(1614)7月17日に病没。享年72。公の席で吐血して倒れたといわれ、片桐且元による毒殺説が起こったという。
画技に優れ、『皇朝名画拾彙』にその名を留めている。なお、柏原藩は孫・信勝の死後、嗣子がなかったために断絶した。また、秀吉の側室・姫路殿は信包の娘である。