織田信勝(おだ・のぶかつ) ?〜1557

織田信秀の子。織田信長の同母弟。通称は勘十郎。別称を信行・達成・信成。武蔵守。
「うつけ者」と称された兄・信長に比べて信勝は家中の評判もよく、父・信秀の死後には、信秀最後の居城であった尾張国末森城と柴田勝家ら家臣を受け継いだ。
信秀の葬儀においては、粗暴な振舞いの信長とは対照的に威儀を正した姿勢で臨み、「信長よりも信勝を家督相続者に」と推す声もあったほどの人物であったという。
弘治2年(1556)、林秀貞(通勝)らの策謀もあって信長と対立し、信長の直轄領である篠木を押領したために、関係はさらに悪化した。
やがて兄弟で抗争するに至るが、同年8月の稲生原の合戦で大敗し、信長・信勝の生母である土田御前のとりなしで降参して許された。しかし再び謀叛を企てたことが柴田勝家の密告で露呈し、弘治3年(1557)11月2日、当時の信長の居城である尾張国清洲城に誘い出されて謀殺された(一説には永禄元年:1558)。法名は松岳道悦。