林秀貞(はやし・ひでさだ) 1513?〜1580?

織田家臣。通称は新五郎。林美作守の兄。佐渡守。名を「通勝(みちかつ)」とする書もある。
はじめ織田弾正忠家・織田信秀に仕え、信秀の嫡男・織田信長が尾張国那古野城を譲られると平手政秀とともにその家老となり、信秀が没して信長があとを継ぎ、平手政秀が没したのちには名実ともに織田弾正忠家の筆頭家老となる。
弘治元年(1555)(一説には天文23年:1554)、横死した織田信光のあとを受けて信長より那古野城代を命じられる。
「うつけ者」と称されていた信長を見限り、信長の弟・織田信勝(別称を信行)を家督に就けようと画策し、弘治2年(1556)8月、弟の林美作守や柴田勝家とともに信長に叛き、信長方の名塚砦を攻めて敗れたが(稲生原の合戦)、赦免を受けた。この合戦に先だって信長を暗殺できる機会があったがそれを思い留まったためとも、縁戚であった大橋氏の取り成しでともいう。
以後は忠実に仕えたと見られ、永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦、天正2年(1574)の伊勢国長島一揆攻めに従軍した。信長が畿内を制圧したのちは主として政務や外交に携わった。
天正6年(1578)1月、有力家臣のみが招待された安土での茶会に招かれて点茶の饗応に与っている。しかし天正8年(1580)8月17日に至り、下田甲斐守の謀叛を鎮圧することができなかったとして突然に追放された。この追放の理由には、信秀死後の内訌時の謀叛を咎めたとするものもある。
天正8年(1580)10月15日に享年68で没したとされる。