稲生原(いのうはら)の合戦

尾張国随一の有力者であった織田信秀が天文20年(1551)3月に没し、その跡目は嫡男の織田信長が継承した。しかし信長は少年時より奇矯な振舞いが多く、陰では『うつけ者』と称されていたため、信長よりも利発と見られていた弟・信勝を推す声もあって織田家中は割れ、水面下での対立が生じていたのである。
弘治2年(1556)に信勝は信長への叛意を顕わにし、信長の所領である篠木の地を押領する挙に出た。この信勝の謀叛は林秀貞に唆されたものというが、信勝自身にも信長を『うつけ者』と侮る気持ちがあったのだろう。さらには於多井川(おたいがわ:別称を庄内川)の川東をも支配地に組み込もうとして川の畔に砦を築くことを企てたが、それを知った信長は8月22日、先んじて川を渡った名塚の地に砦を作るように差配し、これに対抗した。
この名塚砦を攻めるため、信勝方の兵が出陣した。信勝の名代として柴田勝家が1千、林美作守(林秀貞の弟)が7百の兵を率いてのことである。これが8月23日のこととされるが、この日は大雨で於多井川も増水しており、そのために攻撃を見合わせたのであろうか、直接的な戦闘はなされていないようである。
そして翌24日、信長も7百の兵を率いて清洲城から出撃した。数では見劣りがするが、信長が鍛え上げた親衛隊である。この両陣営は清洲から東に約5キロの稲生原で激突した。
柴田隊は東、林隊は南の両面から信長勢に向かったが、信長は軍勢を後退させて態勢を調え、まずは柴田隊とあたる。激しい白兵戦が展開され、その中で信長方の佐々孫介(佐々成政の兄)らが討死した。すでに頭角を顕しはじめていた森可成も信長に付き従い、激しく戦った。
そのさなか、信長が大声で一喝した。敵同士として戦っているとはいえども、もとは同じ織田家中の者である。家督の信長に敵対する後ろめたさからか、柴田隊は信長の叱咤の前に崩れ、敗走した。
そして間髪入れず、信長は林隊に向かう。信長自身が槍を取って林美作守と戦い、討ち取ったことで勝敗が決したのである。信長方の完勝であった。

この後、信長は兄弟の母である土田御前の懇請を容れて信勝を赦免したが、のちに再び謀叛を企てたことが露呈したため、弘治3年(1557)(一説には永禄元年:1558)に清洲城に招いて謀殺している。