田辺(たなべ)城の戦い

慶長5年(1600)6月、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐するため、諸国の軍勢を率いて会津に向かった(会津上杉征伐)。しかし、その隙を衝くように石田三成ら反徳川勢力が7月に至って挙兵。三成は毛利輝元を総大将に迎え、その輝元が7月17日大坂入城を果たしたことで大坂城主・豊臣秀頼を擁立したこととなり、三成ら西軍諸将は反徳川の大義名分を得た。

丹後国田辺城主・細川藤孝がこれを知ったのはその翌日、7月18日のことである。藤孝は既に家督を嫡男・忠興に譲って隠居の身であり、その忠興は家康に従って上杉征伐に従軍中であった。忠興の妻・玉(ガラシャ)は大坂屋敷に居していたが、西軍勢が大坂を制圧する際、人質となるのを拒んで生害したことを知ったのもこのときである。
西軍勢が畿内を制圧したのちは、畿内周辺諸国に矛先を向けることは明らかと見た藤孝は、防衛体制を布いた。しかし丹後国の軍勢のほとんどは忠興に率いられて上杉征伐に従軍しているためにわずかしか残っておらず、この寡兵を分散して諸城に配備するのは得策ではないと考えた藤孝は、国内の戦力と軍備を田辺城の一点に集めて防戦することに決めた。空き城となった諸城は、西軍方の拠点にさせないために火をかけて焼き払う措置を取っている。
こうして田辺城に集まった細川方の軍勢は、50人ほどの侍、雑兵が5百ほどばかりであった。一方の西軍勢は小野木公郷・別所重友・山崎家盛・谷衛友・生駒正俊・毛利高政・早川長政・小出吉政・杉原長房・赤松(斎村)政広ら1万5千余の軍勢といわれる。

西軍勢は7月20日より丹後国侵攻を開始。西軍勢が田辺城に迫ると細川方は遊撃隊を繰り出しては鉄砲を撃ちかけ、激しい抵抗を示した。西軍勢が包囲の布陣を終えた22日より連日の攻防戦が繰り返されたが、田辺城は寡兵ながらも藤孝の采配のもとに西軍勢の攻撃に耐え、よく持ちこたえていたのである。そして27日、田辺城に禁裏より内密の使者が訪れ、和議斡旋の勅諚がもたらされた。しかし藤孝は和睦は断り、古今伝授の箱と証明状、源氏抄箱などに歌一首を添え、禁裏へ献上したのである。まさに必死の覚悟である。

この頃より田辺城の堅固さに西軍勢も攻めあぐねるようになり、戦闘はやや沈静化に向かいつつあった。そこに再び勅諚が発された。今度は前田玄以を通じて西軍方にも伝えられ、玄以の子・前田茂勝が和議斡旋の使者として田辺城に赴いたが、藤孝は再び拒否し、城の防備を更に固めたのであった。

9月になっても戦線は膠着したままで、依然として西軍勢は田辺城攻略の決め手のないまま遠巻きに包囲を続けていた。そして9月12日、3度目の和議斡旋が行われたのである。今度は勅使として三条実条・中院通勝・烏丸光広が前田茂勝の案内で田辺城に下向したのである。
このときの勅諚は「幽斎玄旨(藤孝)は文武の達人にて、ことに古今伝授を伝えられた神道歌道の国師である。もし幽斎が落命することになれば、世にこれを伝える者が途絶えてしまう」という内容のもので、藤孝も再三に亘る勅諚ということもあってさすがに黙視しがたく、これに応じることにした。その条件は、城は西軍方に渡さずに前田茂勝に渡し、藤孝自身は茂勝の居城である丹波国亀山城に入る、というものである。
この和議において城の引渡しは9月18日と決まり、藤孝は19日に亀山城に入城したが、この間に関ヶ原の合戦における家康ら東軍の大勝が伝わるところとなり、67歳の老将・藤孝は大いに面目をほどこしたのであった。