斎村政広(さいむら・まさひろ) 1568〜1600

赤松政秀の子。通称は弥三郎。別称を赤松広英。また、広秀・広道とも名乗った。左衛門佐。
父・赤松政秀の跡を継ぎ、播磨国竜野城主となった。帰郷した藤原惺窩(ふじわら・せいか)の学問に敬服して援助、惺窩より漢学を学んだ。
羽柴秀吉に従って天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦に従軍、天正14年(1586)に但馬国竹田城2万2千石の城主となる。その後も九州征伐小田原征伐などに参陣した。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役には朝鮮に渡海し、文禄3年(1594)に帰国。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては西軍に加わり、丹後国田辺城の細川藤孝を攻めたが(田辺城の戦い)、のちに因幡国鹿野城主・亀井茲矩に誘われて東軍に転じ、共に鳥取城の宮部長熈(煕)を攻めた。政広は3千の兵を率いて勇戦、功を焦って城下町に放火し、その大半を焼く。しかし徳川家康は 、関ヶ原の合戦も終わって勝敗も決している状況において、城下を焼き討ちして町民や百姓を苦しめるとはもってのほか、と激怒し、政広は自刃を命じられた。