尼子家臣・湯永綱の子。母は多胡辰敬の女。通称は新十郎。初名は之子。のちに真矩・茲矩と改める。従五位下・武蔵守。
主家である尼子氏が滅亡したのちは諸国を流浪し、山中幸盛の養女(亀井秀綱の二女。長女は幸盛室)を娶って亀井家に入り、織田信長の支援を受けて尼子氏の再興を図る幸盛の命で、天正2年(1574)に因幡国八頭郡私都城を守った。
天正6年(1578)6月、播磨国上月城に籠もって毛利勢力と戦う尼子勝久・山中幸盛を救援すべく、羽柴秀吉の命で城中へ潜入したという。
幸盛の没後は秀吉に属し、中国経略を推し進める秀吉を援けて毛利勢力と戦った。
天正9年(1581)10月には鳥取城攻めの軍功で因幡国気多郡鹿野城主となり、1万3千石を領す。
信長の死後も秀吉に従い、九州征伐や朝鮮派兵にも出陣した。
のちに秀吉に琉球討伐を願い出て、気宇壮大なところを見せたという。秀吉は「琉球守」の判形を与え、一応は出兵を許したが、実行はされなかった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍に属し、その功によって因幡国高草郡に加増を受けて3万8千石の領主となる。
その治政においては気多郡の日光池や高草郡の湖山池などの干拓、千代川左岸に2キロに及ぶ大井手用水を設けるなどして治水に意を注ぎ、桑・楮などの樹林育成に努め、農業の振興を図った。その治績は亀井堤・亀井笠・亀井踊りなどとして後世まで伝えられている。
また、幕府の許可を得てシャム(タイ)に貿易船を派遣し、幕府とシャム国王の交歓の仲介を行ったこともある。
慶長17年(1612)1月26日、鹿野にて没した。56歳。法号は中山道月大居士。
嫡子の政矩は元和3年(1617)、石見国津和野へ移封、子孫へ相伝した。