前田玄以(まえだ・げんい) 1539?〜1602

美濃国に生まれる。僧籍にあり、徳善院・半夢斎と称す。民部卿法印。
村井貞勝の娘を妻とした。
尾張国小松原寺の僧だったといわれているが、比叡山延暦寺に上る。のちに還俗して孫十郎基勝と名乗り、織田信忠に仕えて7千石を知行した。
天正10年(1582)の本能寺の変に際し、主命により信忠の嫡男・三法師(のちの織田秀信)を護って二条城から脱出、尾張国清洲に逃れた。
翌11年(1583)、三法師の後見役である織田信雄から京都所司代(奉行)に任ぜられ、京都二条屋敷(妙顕寺城)に常駐した。この京都所司代とは日本の中心であった京都の市政を司る重要な職務であるが、この玄以は慶長5年(1600)までの17年間に亘って全うした。
天正12年(1584)2月、民部卿法印に叙せられる。
天正13年(1585)7月、羽柴秀吉から5万石を与えられて丹波国亀山城主となった。
有識故実に詳しく、天正16年(1588)の後陽成天皇の聚楽第行幸の際には秀吉の命により、奉行として儀式などの一切を取り仕切った。
慶長3年(1598)には五奉行の一人となり、京都の庶政・寺社の事務を取り仕切った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては、表面上は西軍として大坂を守っていたが、石田三成の挙兵を会津上杉征伐に向かう徳川家康に注進するなどの功から、結果的には本領を安堵された。
慶長7年(1602)5月7日死去。法号は天涼以公徳善院。
自身が僧侶出身のため、キリシタンに対しては反感を持っていたが、のちに好意を示すようになり、文禄2年(1593)には京都に宣教師が潜伏するのに便宜を図っている。また、インド総督宛の秀吉の返書や贈り物の件についても、宣教師たちのために尽力している。
また、玄以の長男の秀以、二男の茂勝はキリスト教の洗礼を受けている。