細川忠興(ほそかわ・ただおき) 1563〜1645

細川藤孝(幽斎)の子。幼名を熊千代、通称は與一郎(与一郎)。越中守・従五位下・従四位下・侍従・左少将・従三位・参議。父と同じく姓を「長岡」としていた時期もある。妻は沼田光兼の息女。
天正5年(1577)、藤孝・明智光秀と共に松永久秀の属城である大和国片岡城を落とし、織田信長から感状を受けている。
天正7年(6年とも)(1579)、明智光秀の三女・玉(玉子)姫(受洗名・ガラシャ)を娶る。忠興はこの玉姫のことになると異常なまでに嫉妬深く、庭師が玉姫に時候の挨拶をしただけで手討ちに処したともいわれている。
天正10年(1582)の本能寺の変に際しては藤孝と共に髻(もとどり)を切って信長への弔意を示し、明智光秀の誘いを断った。羽柴秀吉に属し、山崎の合戦には参加しなかったが丹波国に攻め入り、明智方の属城2城を陥落させている。しかも、光秀の娘である玉夫人を丹後国三戸野山中に幽閉して、光秀とは関わりのないことを世に示した。このとき藤孝から家督を譲られ、丹後国宮津城主となった。のちに玉夫人の幽閉も解かれた。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦では織田信雄の兵を撃退した。
天正13年(1585)、従四位下侍従に叙任し、羽柴の姓を受ける。
天正15年(1587)、父と共に九州征伐に従軍。天正18年(1590)の小田原征伐にも参加した。
文禄の役にも参加、李宗ァを捕虜とし、晋州城を攻撃している。
文禄4年(1595)の豊臣秀次失脚事件の際、忠興の縁者がいたこと、さらには秀次より黄金百枚を借りていたことなどから、秀吉から秀次一味と目され、閉門を命じられた。懸命に弁明に努めた結果、人質を出すことと借りた黄金を即座に返納することという条件で潔白が認められた。が、即座には返納金が用意できず、奔走の末に徳川家康から借り受けることができ、このときより徳川家と親交が固くなったといわれている。
秀吉の死後、五大老の双璧である家康と前田利家の関係が険悪になったとき、その和解の仲介役となった。
慶長5年(1600)に豊後国杵築6万石を加増された。
関ヶ原の役では徳川方に属して会津上杉征伐に出陣中、大坂屋敷を石田方の軍勢に襲われた。ガラシャは人質として大坂入城を要求されたが、これを拒否。キリシタンであったガラシャは自殺を禁じられていたので、己を家臣の槍に突かせて命を絶たせたという。
関ヶ原の役後、忠興は豊前国中津に39万6千石を与えられた。
慶長9年(1604)、豊前国小倉39万9千石に移封される。
元和6年(1620)、嫡子の忠利に家督を譲った。
正保2年(1645)12月、八代で死去。
忠興は三斎と号し、『利休七哲』に名を連ねる茶の湯の達人で、他にも和歌・絵画・蹴鞠・有識故実に通じる一流の文化人であった。茶の湯の奥義を極めた茶書の著述がある。
海外貿易にも熱心で、多くの舶来品を長崎で求めたため、徳川氏の注目することに不安を感じた忠利から注意されることもしばしばであったという。
また、元首相・細川護熙氏はこの家系に連なるという。