織田信広(おだ・のぶひろ) ?〜1574

姓を津田とも。織田信秀の長子。織田信長の異母兄。通称は三郎五郎。従五位下・大隅守。
生年は不明だが、信長よりもかなり年長だったようであり、父・信秀が天文9年(1540)6月に三河国安祥城を攻略(安祥城の戦い)したのちに城主に据えられている。
天文18年(1549)11月の三河国安祥城の戦い:その2で敗れて捕えられたが、織田家の手に渡っていた松平竹千代(のちの徳川家康)との人質交換により帰国。
弘治3年(1557)年頃、美濃国の斎藤義龍と謀って信長に叛き、清洲城を奪取しようとしたが未遂に終わり、赦免された。以後は信長に従い、元亀4年(=天正元年:1573)4月には信長に対抗した足利義昭足利義昭の乱)との和平交渉に奔走するなど、一門衆として織田氏の勢力拡張に尽力した。
天正2年(1574)9月29日、伊勢長島一向一揆:その3の戦いで討死した。法名は大龍寺殿寛巌大居士。