足利義昭(あしかがよしあき)の乱

織田信長に擁されて上洛し、永禄11年(1568)10月に第15代室町幕府将軍となった足利義昭は、当初は信長を「御父」と呼ぶほどに感謝の意を表し、信頼もしていたが、その関係にも徐々に亀裂が生じてくる。
信長は義昭が将軍位についたあと『殿中の掟』で義昭の権限を抑制し、自らが武家政治棟梁の代行者たるべく行動を開始する。つまり自らの勢力拡張を、幕府の将軍・義昭という威光を利用して進めていこうとしたのである。
義昭は信長に対してしだいに不満を募らせた。織田氏は加速度的にその勢力を広げていたが、その反面、敵対するものも多かった。朝倉義景浅井長政三好三人衆・石山本願寺などがそうである。義昭はその敵対勢力に意を通じ、いわばその触媒となって信長を「共通の敵」と認識させることで信長包囲網が形成されたのである。元亀3年(1572)に松永久秀が信長に叛旗を翻すが、これも義昭と意を通じてのことだったという見方もある。また同年10月に武田信玄が西へと向けて侵攻を開始しているが、その西上の目的が上洛にあったかどうかは別としても義昭と連絡があったことは間違いなく、進軍の状況によっては信長との対決も視野に入れていたのではないだろうか。
信長も当然この義昭の水面下での行動を察知し、元亀3年の北近江侵攻ののちに『異見十七ヶ条』を発布するに至るが、両者の関係の悪化に歯止めはかからず、溝はますます深まっていったのである。
信長は義昭との関係を修復しようと元亀4年(=天正元年:1573)初頭に講和を結ぶように働きかけたが、義昭はこれを一蹴。この時期は武田信玄が三方ヶ原徳川家康を破り、三河国の野田城を攻めていた頃である。信玄上洛を計算に入れてのこととも思われる。義昭は近江国志賀郡の石山・今堅田の砦に兵を入れて挙兵したのである。
信長は2月20日、これに応じて軍勢を興した。24日より柴田勝家明智光秀丹羽長秀・蜂屋頼隆にこの両砦を攻撃させ、数日後には陥落させたのである。義昭勢には朝倉・浅井の援兵はなかった。信玄の侵攻も停止しており、義昭の一人相撲となってしまったのである。
信長は信玄の軍勢が三河国野田から動かないことを見たうえでの3月25日に岐阜より出陣。29日に京都に入り、4月3日に京都郊外に放火した。ここで信長は間髪入れずに使者を送って義昭に和睦を促したが、義昭はこれを拒否。翌日、信長は今度は上京に放火した。そして二条御所を包囲し、再び義昭に和睦を迫ったのである。しかし義昭は態度を変えなかった。
業を煮やした信長は正親町天皇に働きかけ、関白・二条晴良の斡旋で4月7日にようやく和睦が成立したのである。
信長は8日に帰国の途に着くが、その道中において六角義賢が立て籠もる鯰江城を攻撃し、六角氏や一向一揆に味方をしてきた百済寺を焼き討ちした。