池田輝政(いけだ・てるまさ) 1564〜1613

尾張国清洲の出身。永禄7年(1564)12月29日生まれ。名を照政とも。池田恒興の二男、母は荒尾善次の娘。幼名を古新。通称は三左衛門。羽柴三左衛門・吉田侍従・姫路宰相とも呼ばれた。正四位下・侍従・参議。
父・恒興、兄・元助と共に織田信長に仕え、近習として従い、各地に転戦して武功を挙げた。ことに荒木村重謀叛の鎮圧に際しては、摂津国花隈城の北諏訪ヶ峰に陣取り、弱冠16歳でありながらも抜群の功をあらわし、信長から感状を授けられた。鎮定後は摂津国尼崎城にあった。
天正10年(1582)、織田信忠に従って甲斐の武田家を攻める(武田征伐(田野の合戦))。信長の死後は羽柴秀吉に属した。
父が美濃国大垣城主に転封すると、同国池尻城主となった。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦で恒興と元助が討死したため、遺領を継いで美濃国大垣城主となり、10万石を領有した。天正13年(1585)には居を岐阜城に移した。
同年3月の紀伊征伐、8月の越中征伐、天正15年(1587)の九州征伐、天正18年(1590)の小田原征伐と奥州征伐と、秀吉の天下統一事業戦に従軍、それらの軍功で三河国宝飯・設楽・八名・渥美の4郡のうちで15万2千石を与えられ、三河国吉田城主となった。
文禄の役に際しては渡海せず、吉田城にあって東国警衛の任にあたっていた。また山城国伏見城、大和国多内城の普請も務めた。
この間の文禄3年(1594)、秀吉の命により徳川家康の息女・督姫を継室に娶る。この頃の家康は秀吉、前田利家に次ぐ実力者と見なされていた。のちにこの結婚が輝政にとって、出世の足がかりになったことは否めない。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍に属し、8月に織田秀信の守る岐阜城を攻略。この城攻めに際して福島正則と激しい先陣争いを演じた。9月15日の関ヶ原の合戦においても福島正則と共に先鋒を務め、戦後、その功績から播磨国姫路に52万石の大禄を与えられ、姫路宰相と呼ばれた。
姫路の地は西国の毛利氏・島津氏に睨みを利かせ、豊臣家の大坂城に接するという戦略上の要衝であった。さらには弟の長吉が因幡国の4郡のうちで6万石を与えられて鳥取城主となり、慶長8年(1603)には輝政の二男・忠継(5歳)に備前国で28万石、慶長15年(1610)には三男・忠雄(9歳)に淡路で6万石が与えられた。これらの所領を池田一派のものとして総計すると、中国地方東部において92万石を領したことになる。このことからも、輝政に対する家康の期待するところの大きさが窺える。
これと関連して、強兵を図るために有能な浪人を抱えることにも意を用いた。勇士の誉れ高い後藤基次を召抱え、もとの主君であった黒田長政や幕府から非難を受けながらも、輝政の存命中は手放さなかったという。
また、慶長6年(1601)から9年の歳月をかけて姫路城の大改修を行った。これが現在に残る姫路城である。
慶長18年(1613)1月25日、中風により姫路城で死去。50歳。法名は国清院泰叟玄高大居士。