越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)

天正元年(1573)8月、織田信長は朝倉氏を滅ぼして(朝倉征伐:刀禰坂の合戦〜一乗谷の戦い)越前国を所領に収めると、前波吉継を一乗谷城に置いて守護代に任じるとともに、降伏した朝倉旧臣にも旧領を安堵し、その支配を委ねた。この前波吉継は、かつては朝倉氏の重臣であったが元亀3年(1572)に織田氏へと寝返り、朝倉征伐において侵攻の案内役や国衆の調略などで功績を挙げた武将である。
越前国の隣国・加賀国は長享2年(1488)6月に一向一揆が守護・富樫政親を滅ぼして(高尾城の戦い)以来「百姓の持ちたる国」と言われ、一向宗徒によって統治の成されてきた国であった。朝倉氏はこの加賀国の一向一揆と交戦・和睦を繰り返しつつ越前国を維持してきた実績があり、信長はその朝倉旧臣を起用することで越前国を維持しようと試みたのである。
しかし、この信長の試みは失敗であった。前波による越前国の統治はうまくいかず、朝倉旧臣同士の反目や野心が露呈されることとなったのである。
とりわけて前波と富田長繁の対立は顕著で、天正2年(1574)1月に至ってついに富田長繁は一向一揆と結んで味方として前波の居館を襲って討ち果たし、さらには鳥羽野城主の魚住景固をも謀殺して、越前国の支配権を握ろうとした。
しかしその長繁も一揆の敵である信長に意を通じたとして、石山本願寺より派遣された坊官・七里頼周の指揮する一向一揆によって翌2月に討たれ、さらには織田勢力に属していた朝倉景鏡・朝倉景冬・溝江長逸ら朝倉旧臣や平泉寺などもことごとく滅ぼされ、越前国も「一揆持ちの国」と化したのであった。
信長もこうした情勢を察知していたであろうが、この頃は甲斐国の武田勝頼が領国拡大へ向けて活発な動きを見せていたために美濃・遠江国方面への警戒を優先しており、越前国方面への対策は、近江国に配した羽柴秀吉らに命じて警固を強化するに止められたのである。

しかし、一向一揆によって制圧された越前国では新たな対立が生じていた。
前波吉継・富田長繁を倒した際の大きな原動力となったのは主に農民層の門徒による爆発力であったが、武家による統治を除いたあとの支配権は、新たに派遣された本願寺の坊官らに握られた。しかしこの本願寺坊官と在地寺院の坊主衆は支配権をめぐって水面下で対立し、さらには在地坊主衆は以前と変わることのない負担を農民層に強いたため、農民層の不満は募るばかりだった。一揆持ちの国になったとはいえ、その支配構造にはなんら変化はなかったのである。この不満が対立を呼び、天正2年7月頃より武力を伴った争いに発展していったのである。
この情勢を見た信長は朝倉旧臣や反本願寺の寺院らに対して懐柔工作を進めつつ行軍路の整備を充実させるなど、越前国侵攻への楔を打ち込んでいたのであった。
そして天正2年9月に伊勢国の一向一揆を殲滅(伊勢長島一向一揆:その3)したのに続き、天正3年(1575)5月、長篠(設楽ヶ原)の合戦によって武田氏に大打撃を与えた信長は、ようやく越前国の一向一揆鎮圧に乗り出すことになる。
信長は8月12日に岐阜を発ち、14日には越前国大野郡に進んだ。この陸路からの部隊や、若狭・丹後国から海路を経て参集した勢力の総数は5万を超えると見られる。対する一揆勢は木ノ芽峠を防衛線として木ノ芽城と鉢伏城に2〜3千の兵を籠め、その周囲の虎杖城・杉津砦・河野丸砦・火燧城・今庄城・大良城・河野城などの防備も固めた。
翌15日、織田勢が敦賀より進軍を開始する。この戦いに従軍した武将は柴田勝家佐久間信盛滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀丹羽長秀簗田広正細川藤孝塙(原田)直政蜂屋頼隆稲葉一鉄安藤守就織田信雄織田信孝らという錚々たる顔ぶれであり、当時の織田家中の有力家臣がほとんど出陣している。
織田勢の先陣部隊は敦賀湾沿いに進み、杉津と河野丸の砦に攻めかかった。杉津砦は若林長門(一説には若林丹後)・堀江景忠らが守っていたが、堀江が織田勢に寝返ったためにあっけなく陥落し、河野丸砦も落とされた。
勢いに乗る織田勢は大良城・河野城を目指して進み、水軍も加えた陸・海からによる猛攻でこの2つの城も落とした。さらに羽柴・明智隊は先行して、三宅権之丞の守る府中の龍門寺城をもその日のうちに陥落させ、わずか1日の侵攻で越前国の国府を制圧することに成功したのである。
翌16日には信長自身も出馬。しかし前日の猛攻を受けて一揆勢は戦意を喪失しており、戦わずして退却する者も多かったという。
逃亡・敗残の兵の向かう先は府中である。しかし府中は前夜のうちに羽柴・明智隊によって制圧されたばかりか、軍勢を構えて待ちかねていたのである。ここでも一揆勢の多くが捕えられ、その数は1万2千余とも伝わる。
信長はこのときの様子を「府中の町は死骸ばかりにて一円あき所なく候」と、京都に駐留していた村井貞勝に宛てて書き送っている。
さらに織田勢は広く残党狩りを行い、さらなる虐殺を続けた。信長は23日まで府中に留まっていたが、15日から19日の5日間だけで生け捕りになった者、殺された者の数を合わせると3万から4万人にも及んだといわれている。

この殲滅戦において、石山本願寺から越前守護として派遣されていた坊官・下間頼照は、変装して逃れようとしたところを捕えられて誅殺された。また、一揆に加担した朝倉旧臣・朝倉景健は守っていた風尾砦を開けて降参したが、赦されることなく自害した。そのほか一揆勢の主だった武将や坊官が多数討たれたが、七里頼周と若林長門は加賀国に逃れ、その後も信長に反抗を続けることになる。

23日、信長は府中から一乗谷へと移り、羽柴・明智・稲葉・簗田・細川を加賀国へと攻め入らせ、能美・江沼の2郡を平定した。その後1ヶ月ほど越前国に駐留し、加賀戦線の指揮や越前国の新しい領国経営体制を定めるなどしたのちに岐阜に帰城したのである。