前波吉継(まえば・よしつぐ) ?〜1574

朝倉氏の重臣。通称は九郎兵衛。播磨守。
永禄5年(1562)8月に主君の朝倉義景が、京都から下向してきた大覚寺義俊ら公家たちを饗応するため越前国一乗谷の阿波賀原で曲水の宴を催した際、吉継もこれに参加している。
元亀3年(1572)7月に織田信長が朝倉氏と同盟関係にあった浅井長政の拠る近江国小谷城を攻囲すると、義景はそれを牽制するために越前国から出陣して小谷城西方の大嶽に着陣した。この両軍はしばらく対峙を続けたが、8月に至って吉継は突然に白昼堂々と織田勢の陣営へ駆け入って信長に投降した。この寝返りは、以前より吉継が義景から勘気を蒙っていたためという。
そして天正元年(1573)に信長が越前国に侵攻したとき(朝倉征伐:その2)、その案内役を務めている。同年8月に義景が自害し、続いて朝倉景鏡の籠もる亥山城を攻めたとき、吉継は先陣を務めた。
これらの功により信長から朝倉氏滅亡後の越前国の統治を任され、一乗谷の館に置かれて越前の守護(または守護代)に任じられた。
同年、信長が上洛すると吉継も上洛。このときに「桂田播磨守長俊」に改名した。
同年、京都から下向の途中に眼病を患って失明した。
天正2年(1574)、同じく朝倉氏の旧臣であった富田長繁と不和になり、長繁と結んだ一向一揆勢力の攻撃を受け、1月19日に戦死した。