朝倉景鏡(あさくら・かげあきら) ?〜1574

朝倉一族。朝倉景高の子で、朝倉氏当主・朝倉義景の従兄弟にあたる。母は景高の側室で、権中納言・烏丸冬光の娘。通称は孫八郎。式部大輔。朝倉家中の職制では大野郡司の地位に在った。
永禄7年(1564)9月、朝倉隆景と共に加賀国一向一揆討伐軍の大将として加賀国に出陣。
永禄9年(1566)9月、主君である義景が松永久秀三好三人衆らの手から逃れた足利義昭を越前国敦賀に移すにあたって義景の代官として義昭を迎え、翌年11月に義昭が義景の居館・一乗谷朝倉館を訪れたときは景鏡が義景よりの進上品を持参、朝倉同名衆の筆頭として挨拶をした。
永禄13年(=元亀元年:1570)4月、織田信長は越前国への侵攻を図ったが、突如として叛旗を翻した浅井長政に退路を断たれようとしたために撤退したおり(朝倉征伐:金ヶ崎の退き口)、景鏡は総大将として2万余騎を率いて近江国北域へ信長勢を追撃、ついで美濃国垂井・赤坂に放火して帰陣した。
元亀3年(1572)7月、信長が浅井氏の本拠・近江国小谷城の前の虎御前山に城を築いたため、景鏡は浅井への援軍として5千余騎を率いて小谷に陣を布いた。
元亀4年(=天正元年:1573)7月、義景から小谷城を救援するために近江国に出陣するよう命じられたが、これを拒否。やむなく自ら出陣した義景が翌月の近江国刀禰坂の合戦で織田勢に惨敗を喫し、追撃を受けつつも一乗谷に敗走してくると、大野郡への退却を勧めた。しかし景鏡は裏切って義景を襲い、賢松寺にて自害させてその首を信長に捧げて降伏した(朝倉征伐:刀禰坂の合戦〜一乗谷の戦い)
のち、信長に従って上洛、本領を安堵されて越前国戌山城主となり、名を土橋信鏡と改めた。
天正2年(1574)、一向一揆と対立。平泉寺に籠もって戦ったが、一揆勢との戦いに敗れて4月14日に自害した。